ヤクルト村上宗隆内野手(22)が55号本塁打を放った時の紙面企画として、9日に前ヤクルトの山川晃司投手(25)の話を聞いた。現在は独立リーグ、日本海オセアンリーグの富山でプレーしている。村上の前の「背番号55」だが、ここだけ聞くと「なぜ投手が55?」という疑問が出そうなので、山川選手について少し補足したい。

厳密に言うと、55の時は投手ではなかった。15年、福岡工大城東から高卒捕手としてプロ入り。福岡出身で、小学生のころから城島健司氏に憧れた。「城島さんがやってる番組も見てましたし、座ってセカンドスローとかもまねしてました」。メディアに「城島2世」と書かれることが誇らしかった。

その後、出場機会を求めて一塁、左翼、右翼に挑戦した。「試合前練習で、外野やって内野受けて捕手いって、ってことも多かった。すべての練習をしなくちゃいけないのは大変でしたけど、すごくやりがいを感じてました」。18年、入団してきた村上に55を譲り、自身の背番号は69に変わった。

そして19年春、高津監督(当時2軍)に二刀流を打診される。満足な成績を残せず、生きる道を模索しているところだった。「外野をやってる時に、投げる球は誰にも負けない自信があった。やりたいなあと思ってたので、そこだけは高津さんに認められてうれしかったですね」。投手兼任。即決で快諾した。

だが同年オフ、戦力外通告を受けることになる。「すぐ腰を手術して。ヘルニア手術。本当(投手転向から)すぐくらいか同時くらいのタイミングで手術しちゃって、まともにできなかったんです」。可能性をあきらめきれず、12球団合同トライアウトに投手、野手両方で参加。現役続行が決まった時、肩書から「捕手」がとれて「投手」専任になった。

富山に来て3年目のシーズンが終わろうとしている。「やっぱり一番の目標はNPBに復帰することです、投手として。プロの球を受けてきて、どのレベルまでいかないと活躍しないかは分かってるつもりです」と、捕手の経験も生かしながら、リリーフで好投を続けてきた。もう1つの目標に挙げていた「日本海オセアンリーグ初代優勝」争いは、ちょうど今、大詰めを迎えている。【遊軍 鎌田良美】

14年、ヤクルト入団当初は背番号55をつけていた山川晃司
14年、ヤクルト入団当初は背番号55をつけていた山川晃司