戦争に負けて7年がたっていた。勤労動員に駆り出され、空襲警報に肝を冷やしたころがうそのよう。22歳になった渡辺和治さんは、家業の酒屋を手伝いながら、旧制尼崎商時代に鳴らした野球を楽しむ気ままな毎日をすごしていた。

そんなある日、阪神尼崎駅前、中央商店街にある「キャバレー春美」のマネジャーを名乗る男に声をかけられた。確か、地元の財閥系企業の野球部にいた男だ。

「辞めて春美のボーイになったんや」「いい会社に入ったのに…、アホやなぁ」「誰がアホやねん、ほっとけ」

ともあれ、キャバレーの社長が大の野球好きで、社会人チームを作った。経験者をスカウトして、選手を集めている。腕を貸して欲しいという依頼だった。いわく、ユニホームや用具一式は、商店街の運動具店でそろえてやる。練習は、やらない。試合だけでいい。そしたらな、店で好きなだけ遊ばしたるで…そんな条件を示したマネジャーは「ただし」と付け加えた。

「店の娘(こ)には、手ぇつけたらあかんで」

尼崎中央商店街の夜景。右上に丸い、中央に四角い「春美」のネオンが見える(55年撮影、兵庫県尼崎市立地域研究史料館所蔵)
尼崎中央商店街の夜景。右上に丸い、中央に四角い「春美」のネオンが見える(55年撮影、兵庫県尼崎市立地域研究史料館所蔵)

1952年(昭27)夏の都市対抗県予選で決勝に進出した「春美」は、社会人野球シーズンの最後を飾る産業対抗野球大会出場を目指していた。地区代表で争う都市対抗に対し、鉄鋼や造船、電機、鉄道など産業別で代表を決める全国大会。通称「サンベツ」。日本経済の復活を象徴するような大会で、前年に第1回が開かれていた。

百貨店・商業部門にエントリーした春美は、あれよあれよと勝ち進む。西日本予選決勝で、強豪・全大丸を7-3で破り、部門決勝に進出。だが、北海道農協連(ホクレン)に7-9で敗れて、またも決勝で敗退-。

ところが、ホクレンが棄権し、11月1日から東京・後楽園球場で開かれる全国大会出場の権利が転がり込んできた。

初戦は11月3日、大会第3日の第2試合、相手は鉄鋼部門代表の富士製鉄(現日本製鉄)と決まった。「まるで漫画やで」。尼崎の商店主たちが笑い話のタネにしたかどうかは知らないけれど、とにかく「鉄は国家なり」を地でいく巨大企業と、尼崎のキャバレーが、野球の全国大会で激突することとなった。

「後楽園は広いなぁ」。右翼の守備についた渡辺さんは、ぐるりと球場を見渡した。ただ、助っ人として大会前に合流した渡辺さんは、「サンベツ」や「後楽園」の大舞台に、たいした感慨を抱かなかった。それより、父が亡くなり、商売を継がなあかん。身も固めた。これで野球は最後やな。

「プレーボール!」。アンパイアの右手が上がった。(つづく)【秋山惣一郎】