華やかな店内に入って、その姿をみとめた酔客が声をかける。

「お、南海の丸山やないか」

プロ野球・南海で活躍した丸山二三雄さんは、元チームメートと連れだって、しばしばキャバレー春美のボックス席で飲んでいた。細身でダンディー、社交ダンスをたしなむ丸山さんは、ホステスさんによくもてた。野球好きで知られる春美の社長も、有名選手の来店をことのほか歓迎したという。

丸山さんは1925年(大14)生まれ。大阪・京阪商から43年、南海に入団。プロ野球再開の46年には25勝を挙げた。49年、中日へ移籍し、51年には大洋(現DeNA)へ。同年、プロ通算45勝62敗の成績を残して引退した。どういった経緯があったか不明だが、52年、創設とともに春美野球部に入団した。

中日時代の丸山二三雄さん(50年ごろ、丸山美和子さん提供)
中日時代の丸山二三雄さん(50年ごろ、丸山美和子さん提供)

肩を痛め、往年の力は衰えていたとはいえ、左腕から繰り出すキレのいい変化球と、直球を速く見せる技術を持っていた。年ごとにメンバーが入れ替わる中、一塁や外野も守って、投打の主力としてプレーした。春美は紛れもなく丸山さんのチームだった。

「尼崎? キャバレー? さぁ、聞いたことがありません」と、丸山さんの1人娘、美和子さんは言う。

「私が物心ついたころ、父は、大阪・心斎橋で、住まいを兼ねた小料理屋を営んでいました。白衣で板場に立つ父の姿を覚えています。元プロ野球の選手だと知ってはいましたが、自宅で野球の話はほとんどしませんでした」

55年、春美でのプレーも4シーズン目に入っていた。6月、西宮球場での都市対抗兵庫県予選に「2番一塁」で先発出場し、3打数無安打。この記録を最後に、野球の助っ人稼業から身を引いた。その5カ月後、美和子さんが生まれている。

平成が始まった年に、丸山さんは心斎橋の店をたたみ、娘夫婦と大阪府北部の豊中市へ移って、隠居生活を送っていた。たまに南海や中日のOB会があると、楽しそうに出かけて行くが、家庭では相変わらず、野球の話はしなかった。

あれは豊中に移って十数年たったころだろうか。娘婿の希さんは、リビングのソファに無造作に置いてあった野球のグラブを見たことがある。一目で年代物と分かる古い革製だった。義父のものか、もらったものか。なぜ、今、ここにあるのか。野球について、自ら語ろうとしない義父に問うのもはばかられて、それきりになった。

丸山さんは2006年(平18)、81歳で亡くなった。

野球について何も語らず、ボールひとつ残さなかった。どこへ消えたか、あのグラブも見つからなかった。(つづく)【秋山惣一郎】