店のステージにユニホーム姿の選手たちをずらりと並べた「春美」の社長は、すこぶる上機嫌だった。

「このチームが東京へ行ったんや!」

1952年(昭27)秋、春美は、社会人野球への参入初年度で、産業別対抗の全国大会「サンベツ」に出場。初戦敗退したとはいえ、キャバレー社長の道楽にしては、上々の出来だった。

「ほれほれ」と社長に促されてボックス席に座った選手たちは、ホステスに囲まれて、大いに飲んで騒いだ。もちろんマネジャーの言いつけは、しっかり守ったという。

「百万弗(ドル)」「ナナエ」「ミス東京」-。当時の尼崎には、キャバレーが数多くあった。中でも春美は、専属のバンドと有名歌手を招いたショーに、美人ぞろいと評判のホステスが花を添える「大バコ」の人気店だった。

58年、1人娘の結婚式で笑顔を見せる檜垣朝一さん(左)と妻のシズヱさん(檜垣きく江さん提供)
58年、1人娘の結婚式で笑顔を見せる檜垣朝一さん(左)と妻のシズヱさん(檜垣きく江さん提供)

「社長」は、愛媛県出身の檜垣朝一(あさいち)さん。とりわけ音楽とスポーツを愛する趣味人にして男前、情にもろい人だった。ママとして店を切り盛りしていたのは、妻のシズヱさん。女優の山田五十鈴に似た美人だが、やくざ相手に1歩も引かない迫力で「尼崎3大ママ」に数えられたという。

朝一さんのめい、檜垣きく江さん(71)が振り返る。

「働き者の伯母が稼いで、伯父が道楽に使う、という夫婦でした。野球チームについて伯父は生前『金食い虫や』とこぼしていたそうです」

チームは53年に「春美クラブ」、54年は「春美」と登録名を変えたが、初年度以上の戦績を残せず、55年を最後に社会人野球史から消えた。

そのころのキャバレー事情が「不死鳥の如く 大阪社交業界戦後史」(83年、大阪社交タイムス社刊)に書き残されている。

「(昭和)25年に起こった朝鮮戦争による軍需景気で一時的に再び活況を呈したが」「26年7月、休戦会議が開かれるに及んで急速に冷却し」「店を開けばもうかる時代は去って行った」

尼崎市立図書館が所蔵する住宅地図で「キャバレー春美」が確認できるのは、57年版まで。手塩にかけた1人娘が大学を出て眼科医となり、結婚、開業したのを機に店を閉めたようだ。悠々自適の晩年は、何の用事があったのか、ビシッと背広を着こなして、神戸・三宮あたりへ出かけた。でも時折「仕事したいんや」と寂しそうに話すこともあったという。67年没。65歳だった。

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「水商売の名前やろ」「あんまり言わんほうがええよ」

中村春美さん(56)は少女時代、大人たちから、いらぬおせっかいを焼かれるたび、心の中で言い返した。

「どう思われようと『春美』は私の大切な名前です。私はキャバレー春美の孫ですから」

戦後間もない尼崎の街を彩った「春美」を、朝一さんは惜しんだ。焼け跡のネオンも白球も歴史のかなたへ消えたけれど、その名を継いで中村さんは、今も尼崎に暮らしている。

(この項おわり)【秋山惣一郎】