84年ロサンゼルス・オリンピック(五輪)は日本の球史で唯一の金メダルに輝いた。胴上げ投手となった“ラストサムライ”は今、ホテルマンとして20年東京五輪での再現を願っている。阪急阪神第一ホテルグループの第一ホテル両国・吉田幸夫社長(61)が歓喜を回想する。【取材・構成=新島剛、広重竜太郎】

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ロス五輪の頂点を極めてから数日後、吉田幸は中米にいた。所属するプリンスホテルのメキシコ・キューバ遠征。金メダル翌日に晴れて帰国した代表の戦友を空港で見送り、所属先に合流した。遠征を終え、帰国した時は2週間後。今なら熱烈な歓迎が待っていそうだが、喧噪(けんそう)は過ぎ去っていた。

吉田幸 もう落ち着いてましたね。当時は生中継もなかった。ニュースで「昨日、日本が優勝しました」ぐらい。ゲームセットの瞬間と表彰台の映像しか流れなかったと聞いてます。

帰国して大食漢が親子丼を平らげ、カツ丼まで箸が進まなかった時にやっと変化を感じた。「胃袋が小さくなった」。好きな白米を長期間、食べる機会がなかった。大事を成し遂げた男のささやかな実感だった。

84年8月7日、ドジャースタジアム。興奮の極限を味わっていた。決勝の米国戦。吉田幸は準決勝の台湾戦に先発し、10回途中まで投げた。「もしかしたら抑えがあると頭に入っていた。逆に最後、投げさせてもらいたい気持ちもあった。過剰意識ではなく米国に勝てると思っていた」。2点リードの7回2死満塁のピンチで登板。相手は後にメジャーや巨人で活躍したシェーン・マック。「絶対に攻める」。臆せず、当時はより希少だった下手投げからインハイを突く。最後は外角へのスライダーと、現在も基軸となる左右の揺さぶりで三振に切った。

9回に2ランを浴びたが、逃げ切った。マウンドに上がる前、5万8000人の敵地で「ライフルで命を狙われる意識もあった」と想像したが、最後はスタンディングオベーションでたたえられた。米国は、そして五輪は勝者に対して純粋に賛辞を惜しまなかった。

歳月が流れ、金メダルの心境を聞かれた。13年。大津プリンスホテルの総支配人として皇太子、現在の天皇を出迎えた。前日に宮内庁から、プライベートの時間になったら野球について質問されると聞いていた。部屋へと通じるエレベーターに乗った瞬間、尋ねられた。「五輪で優勝された時はどんなご気分でしたか?」。「日の丸がドジャースタジアムの真ん中に上がり、君が代が流れた時は最高の気分でした。君が代はこんなにも最高の曲だったのだな、と思いました」。「それは良かったです。私は野球を見るのが大好きです」。約30年がたっての“凱旋(がいせん)報告”だった。

ことあるごとに日本球史唯一の金メダルを周りに触れてもらう。メダルの縁は酸化が目立つ。「触った方は1000人とくだらないでしょうから。五輪を目指す少年もいるだろうし、みんな喜んでくれる。東京五輪では正式種目になってからの1個目を取ってほしいです」。五輪決勝を見に行く予定はない。チケット抽選も申し込んでない。「忙しいでしょうからね」。ホテルマンとして祭典に集う人々をもてなす。あの日、日本代表をもてなしてくれた世界中の野球ファンのように。(敬称略)

84年、ロサンゼルス五輪で米国を破り金メダルを獲得した日本チームは表彰台で喜ぶ
84年、ロサンゼルス五輪で米国を破り金メダルを獲得した日本チームは表彰台で喜ぶ