プロ野球界でユニホームのカラー化が進んだ1970年代。大洋(現DeNA)が74年に採用したユニホームは、緑とオレンジ色の奇抜な、いや、斬新なものだった。湘南エリアを走る東海道線(湘南電車)の車体と配色が似ていたことから、「湘南電車カラー」と呼ばれていた。


このユニホームの採用は、ゴールデンルーキーの入団がきっかけだった。

73年のプロ野球・ドラフト会議。予備抽選で指名順を決める当時の方式で、全体のトップを引き当てた大洋は、慶大の山下大輔を1位指名した。作新学院の江川卓を差し置いて、「いの一番」だった。

広岡達朗(早大-巨人)以来との呼び声高い大型遊撃手にしてハンサムな慶応ボーイ。しかも春のキャンプ地、静岡県は清水市(当時)出身の「ご当地選手」だ。大味な野球で人気も成績も低迷していた大洋は、東京6大学のスターをことのほか歓迎して、白地にオレンジの胸マーク「WHALES」の一新を決定。「日本プロ野球ユニフォーム大図鑑」(綱島理友著)によると、当時のヘッドコーチ・秋山登が、山下にちなみ静岡の名産、お茶とみかんから発案したのだという。

74年3月20日、横浜平和球場。対南海のオープン戦で、新ユニホームがデビューした。試合前のロッカー室で、選手たちは互いのユニホーム姿を見ながら「胴長短足の俺には似合わないな」「こんなに派手なの、恥ずかしいよ」と照れ、笑った。

ただ、細身の長身、長髪に口ひげの外国人選手、ジョン・シピンには、とてもよく似合った。試合は、新ユニホームに気をよくしたシピンの2ランなどで前年のパ覇者、南海を5-2で破り、新生・大洋の門出を飾った。

本拠の川崎から静岡へ向かう電車とチームカラーが重なって、球団の思惑通り、イメージは一新。オールドファンなら、今も「大洋と言えば緑とオレンジ」と連想するほど鮮烈な印象を残した。だが、74年は5位。以後、5位、6位、6位。78年、横浜への本拠移転を機に球団名は「横浜大洋」に。ユニホームは白と紺のシックな配色に変えた。

山下は球団の期待に応え、名遊撃手として長くチームの主力を担った。87年に引退。03、04年には、後身の横浜ベイスターズで監督も務めた。

湘南電車カラーのユニホームで草薙キャンプを行う大洋山下
湘南電車カラーのユニホームで草薙キャンプを行う大洋山下

山下は言う。「後に聞いたところでは、僕の入団を機に『思い切ったことをしよう』『すべて一新するんだ』という声が、球団内で出たそうです。キャンプでは前年のユニホームを着ていたので、急いで作ったのかな。先輩たちは戸惑ってましたが、ルーキーの僕は『プロはこんなものか』と。僕の入団を印象づけるユニホームで『大ちゃんカラー』とも呼ばれてました。ありがたいですね」。

沼津、富士川、由比、興津、山下が生まれ育った清水…。東海道線は、富士山を横目に駿河湾をなぞるように走る。車体の緑とオレンジのラインが、お茶とみかんの静岡の景色に映えている。(つづく)

【秋山惣一郎】