<ダイエー4-6近鉄>◇2004年(平16)5月17日◇福岡ドーム

近鉄水口栄二に追いすがり、福岡ドームの通路を歩きながら「あの逆転打は…」と何度か問いかけた。だが、くちびるは固く結ばれたまま。答えは返ってこなかった。これ以上聞いても無理か…と質問を変えようとしたとき、途切れ途切れの声が聞こえた。

「言葉にならんねん…鈴木さんは全部が全部、ぼくにとっての手本でした」

語り終えたあと、むせび泣きしか聞こえなかった。

97年4月、大阪ドーム1号本塁打を放った近鉄鈴木貴久は記念プレートを手に記念撮影
97年4月、大阪ドーム1号本塁打を放った近鉄鈴木貴久は記念プレートを手に記念撮影

2004年5月17日。近鉄鈴木貴久2軍打撃コーチが急性気管支肺炎で亡くなった。5月15日のウエスタン・リーグ阪神戦前に鳴尾浜で体調不良を訴え、わずか2日後に息を引き取った。40歳の若さだった。

89年、仰木近鉄優勝時の中心打者で、引退後は若手育成に心血を注いだ。寡黙で、心は熱い兄貴分だった。その人の突然の死を、近鉄ナインはダイエー戦前の博多の宿舎で聞いた。黙とうし、ユニホームの左肩に喪章をつけても、うそやろ? うそやろ? そんな心情でダイエー戦に臨んだ。

福岡ドームでは3連敗中。分が悪かった。この日も先行を許し、2点を追って終盤へ。試合前に受けた衝撃でバファローズは地に足がつかないまま、力尽きる…。記者席でそう思った7回、試合が動き始めた。

04年5月 ダイエー戦の7回表1死一、二塁、逆転の左越え適時二塁打を放つ近鉄水口
04年5月 ダイエー戦の7回表1死一、二塁、逆転の左越え適時二塁打を放つ近鉄水口

1死から的山哲也が四球で歩き、代打の益田大介が一、二塁間を破って一、三塁。大村直之が右脇腹に死球を受けて1死満塁。相手の暴投で1点差に迫り、続く水口が6球目のフォークを捉え、左翼線への逆転打に。さらに2死一、二塁で、礒部公一が2点打を放った。「今でも信じられないんです。自分と年の近い人が、こんなに急にいなくなるなんて。人の命って何なんやろうと思って」。途方にくれていた選手会長が、逆転勝利を決定づけた。

「鈴木さんの気持ちが、ここまで届いたようでした」。試合後、主砲の中村紀洋が逆転の7回を語った言葉だ。殊勲打の水口は二塁ベースに立ったとき、左肩の喪章に触れた。鈴木さんと出会ったことで、野球人生を好転させた選手は何人もいた。悲しさ、やるせなさをすべてぶつけるような、近鉄ナインのすさまじい集中力だった。

鈴木コーチが元気でいたなら、次代を担う若手を何人も世に送っていただろう。大事な人材の急逝は予兆になった。オリックスとの球団合併によって、近鉄バファローズは04年を最後に消滅する。楽天が球界に新規参入し、オリックスとの分配ドラフトで近鉄ナインは両球団に分かれた。梨田昌孝監督の指揮下で史上4度目のリーグ制覇を成し遂げてから、わずか3年後の出来事だった。(球場名など当時、敬称略)【堀まどか】