大学では野球を続けない。最後の大会を終えた東海大菅生(西東京)の高橋昇太郎内野手(3年)は穏やかな声だった。

東海大菅生・高橋(撮影・古川真弥)
東海大菅生・高橋(撮影・古川真弥)

「確かに悔しさはありました。3年やって1度もメンバーに入れなかった。でも納得するまで努力したので、最後は悔しさもなく、やり切ったと感じました」

帝京との東西決戦は、0-2の9回に3点を奪う逆転サヨナラ勝ち。スタンドで見届けた直後「奇跡が起きた」と放心したという。

仙台出身。地元の公立校で野球を続けるつもりだったが、中3最後の大会に初戦で敗れ「悔しくて。見たことがない、レベルの高い野球をしたくなりました」と翻意した。父大典さん(53)が若林弘泰監督(54)の大学の後輩という縁もあり、単身上京。強豪に飛び込んだ。

練習のムシ。168センチと小柄だが、苦手な食事も頑張った。冬合宿では近くの西多摩霊園でむちゃくちゃ走った。だが、同期だけで26人。後輩にも有望な選手がたくさん。Aチームに入った時期もあったが、背番号のハードルは高かった。

代替大会開幕前「後輩がAチームに入っていくのを見て、本当に悔しかった。自分の気持ちの出し方が足りなかったのではと情けなかった。小学校の時から、すごく努力してきたつもりだけど、菅生に入って、もっと努力した選手がいるんだと。自信が崩れていきました」と語った。最後こそ-。強い気持ちで練習を続けたが、若林監督は完全実力主義を掲げた。甲子園中止で3年生を優先させる学校も多かった。実は、高橋のひたむきさを認め「昇太郎を出したい気持ちもあった」が、信念を貫いた。

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大会前に取材した高橋君の心理が気になっていた。記者も似た経験がある。高校時代、レギュラーになれなかった。白球ではなく楕円(だえん)球を追った。花園出場もある名門校で、しごかれる毎日。高校日本代表級の後輩が複数いた。最後の大会が近づくにつれ、もう諦めていた。ただ、レギュラーにはなれないのに、なぜ、しんどい思いを続けないといけないのか-。思春期真っただ中、理想と現実の違いに苦しんだ。

今では悩む方向が間違っていたと分かる。高橋君の言葉にハッとする。四半世紀前の自分は「納得するまで努力」したか。スポーツに限らない。「悔しさもなく、やり切った」。本気で汗を流した人間だけが達する境地。東京NO・1に沸くナインの裏で、ある球児が背番号とは異なる貴重な経験をした。【古川真弥】