チーム改革の旗振り役として今オフ、異色の2軍監督が誕生した。プロ未経験の日本ハム原田豊2軍監督(62)だ。社会人や高校野球の監督を経て、14年に九州地区スカウトとして入団。「熱意や情熱を選手に伝える前に、コーチ自身が勉強しないと」。プロ経験のあるコーチ陣にも、気後れせずに意見する。「まあ、うるさいジジイよ」。好々爺(や)然とした笑顔は、柔らかい。

今季から指揮を執る日本ハム原田2軍監督(撮影・中島宙恵)
今季から指揮を執る日本ハム原田2軍監督(撮影・中島宙恵)

2軍監督として初めて迎える沖縄・国頭での春季キャンプでは「1軍と同じくらいの緊張感を作り出したい」と精力的に動く。まずは、毎年同じ行程練習に着手した。「守備では『実弾に勝るものなし』というのが私の考え」。ノックではなく、打撃練習中の生きた打球を捕ることに重きを置いた。勝負のピリピリした感覚を、体に染み込ませるためだ。

ベースには、東海大時代の恩師、故原貢氏の姿がある。「とにかく厳しい人だったけど、緊張感がある。毎日緊張でガチガチなんだけど、そのプレッシャーに耐えられるから試合でも平気なの」。ただ、いわゆる「昭和の指導法」では時代が許さない。「今の選手は怖さで抑え付けるわけにはいかない。それに代わるものって、何だろう。行き着いたのが選手との距離感だった」。選手と緊張感のある関係を築くため、まずは指導にあたるコーチやスタッフと対話を重ね、ベクトルを共有することからスタートした。

現役時代は遊撃手で、東海大では巨人原監督と三遊間を組んだ。36歳で1度、野球から離れてサラリーマンに。誰もが知る一流企業でトップ営業マンとして活躍し、役員にまで上り詰めた。日本ハムのスカウトに転身した時、年収は4分の1に減ったが「スカウトで春夏5回も甲子園へ行った。なんて幸せなんだろうと思ったね」。生粋の野球好きだ。

5年のスカウト活動後、2軍総合コーチとしてユニホームを着ることになった。努力をしない選手はいないのに、なぜ、伸びないのか。「間違った努力じゃなく、正しい努力の方法を教えるのがコーチの務め」。そのためには、指導者自体が成長しなければならない。他球団の育成法にも耳を傾け、意見の衝突もいとわなかった。「1年でも長くプロ野球選手でおらせてあげたい」。自身の出世欲やプライドより、選手第一主義。スカウト時代から変わらぬ熱意が、現場の空気を変えようとしている。【中島宙恵】

◆原田豊(はらだ・ゆたか)旧姓・西本。1958年(昭33)12月18日、山口・徳山市(現周南市)生まれ。柳井高から進学した東海大で遊撃手として活躍。東海大から協和発酵に進み、81年に日本鋼管(現JFE西日本)の補強選手として都市対抗に出場した。協和発酵監督を5年間務め、会社員を経て12年から約1年間、柳井高監督。14年日本ハムにアマスカウトとして入団、18年オフから2軍総合コーチを務めた。