宮城北東の海岸部、南三陸町志津川。午後5時ごろ、整備された道路沿いに立つ平屋の軒先に昔かたぎの店主三浦達也さん(53)が、えんじ色の、のれんを掛ける。店内は10席ほど。足元から目の上まで“ワシ”一色の居酒屋「鷲巣(いーぐるす)」が開店した。

宮城・南三陸町で居酒屋「鷲巣」を営む三浦達也さん(撮影・桑原幹久)
宮城・南三陸町で居酒屋「鷲巣」を営む三浦達也さん(撮影・桑原幹久)

野球が盛んな地元で、クリーニング店を営む一家に生まれ育った。幼少期は王、長嶋に憧れる巨人ファン。04年、東北に楽天イーグルスが誕生すると、自然と関心はおらが町のチームへ。家業を継ぎながら、南三陸町応援協議会の発起人となった。「最初はとにかく弱かった。100敗するんじゃないかとね」。

05年、店舗兼自宅が火事で燃えた。翌年に再建も、10年には父達朗さん(享年76)が倒れ、亡くなった。東日本大震災が起こったあの日は、配達で車を運転中に携帯から「びーびー」と音が鳴った。「これはやばい」。停車まもなく揺れた。すぐに店舗へ戻り、足の悪い母律子さんを呼んだ。「おふくろ、逃げるぞ!」「大丈夫、大丈夫」。後悔は消えない。「まさかあんな高い津波が来るなんて、思いもしなかった」。

高台へ走らせた車を降り、振り返る。2、3分前の街並みはどす黒い流れにのまれた。翌日、店舗の2階部分だけが数キロ先で見つかり、屋上の干し場はぬれていなかった。「今思えば俺が残ればおふくろも助かったのかな。でも、結果論ですよ」。母は震災から2カ月後の5月、遺体安置所で見つかった。74歳。すでに火葬されていた。

8月、仮設住宅に入居した。家業の再建も考えたが、父の言葉がよぎった。「小さい頃から、両親が遅くまで仕事してたんで、よくチャーハンとか作ってた。そういえば『お前、料理屋、飲み屋の方が向いてるんじゃねぇか』と言われてたなと思ってね」。約600万円の開業資金を集めようとアルバイトを始めた。給水活動、事務員、漁協の手伝い、施設の環境整備。銀鮭の加工場では無理が重なり、腕を負傷した。「けがをした時は弱ったね。あんまり落ち込まない方なんだけど。みんな早い早いって言うけど、あの8年は、人生の中で一番長かった」。

13年11月3日。楽天が日本一になった。町のパブリックビューイング会場で、優勝記念の横断幕を除幕した。「泣いてる人もいてすごかった。気分がよかったですよ」。あの歓喜を体感したからこそ、思う。「『勇気をもらいましたか?』とよく聞かれるけど、流行語みたいになってる。どう思うかは人それぞれ。勝てばうれしい、負ければ悔しい。それだけでいいんだよ」。

居酒屋開店のめどが立ち、店名を考えた。好きなマージャン漫画を引っ張りに、友人から「イーグルスとも読めるね」と言われ鷲巣とつけた。開業は19年4月3日の大安。前日は楽天の本拠地開幕戦を吹雪の中、観戦した。「開幕に向けてオープンしようと思ったんですけど、2日が仏滅で。私見に行くと2勝30敗くらいなんですけど、その日は勝ったね(笑い)」。

「鷲巣」の店内に飾られる楽天グッズの数々(撮影・桑原幹久)
「鷲巣」の店内に飾られる楽天グッズの数々(撮影・桑原幹久)

自ら釣った魚をさばいたり、客の要望に即興で応えることも多い。地元客はもちろん、話を聞きつけ、仙台市内や他県から足を運ぶ楽天ファンもいる。昨年はコロナの影響もあったが、対策を万全にとり、奮闘を続ける。3月4日、53歳の誕生日を迎えた。10年前。もがく自分に言葉をかけるなら-。「頑張れよ、くらいですかね。何とかこの店を軌道に乗せたい」。【桑原幹久】

<三浦さんの10年>

◆11年3月11日 クリーニング配達中に被災

◆同年4月 給水活動のアルバイトを始める

◆同年8月13日 仮設住宅入居

◆12年 漁協でアルバイト

◆13年11月3日 楽天が初の日本一。祝勝会で優勝記念の横断幕を除幕する

◆15年 施設の設備管理のアルバイト

◆18年11月 仮設住宅を退去

◆19年3月31日 アルバイトをやめる

◆同年4月3日 居酒屋鷲巣を開店

◆21年3月4日 53歳の誕生日

店内に飾られている楽天ユニホーム(撮影・桑原幹久)
店内に飾られている楽天ユニホーム(撮影・桑原幹久)