ヤクルト宮本慎也から再び電話がかかってきたのは03年11月上旬のことだ。

杉浦正則は3大会連続出場した00年シドニーオリンピック(五輪)で燃え尽き、同年11月に32歳の若さで現役引退。その後は日本生命硬式野球部の投手コーチとして、後進の育成に励んでいた。

一方の宮本は同志社大学の後輩でもあり、シドニー五輪直前に代表辞退を翻意させてくれた恩人。当時はアテネ五輪の金メダルを目指す「長嶋ジャパン」の主将に就任していた。

03年11月、アテネ五輪のアジア予選でチームを引っ張る宮本(中央)。右端は長嶋監督
03年11月、アテネ五輪のアジア予選でチームを引っ張る宮本(中央)。右端は長嶋監督

「大丈夫か?」

杉浦が問いかけると、2歳下の後輩は苦笑いしながら本音を漏らした。

「いや~大変ですね。みんな個が強い。なかなかまとめるのが難しいです」

杉浦は過去3大会の経験も踏まえ、強く助言した。

「遠慮して、やっておけば良かったとだけはならないようにした方がいいぞ」

初めてオールプロで編成された日本代表は11月1日、アテネ五輪出場権をかけた大会を前に壮行試合で敗れていた。福岡ドームでプロ選抜と対戦。重たい国際球にも苦しみ、3安打1得点の船出を切っていた。

杉浦は結果以上に、その空気に不安を覚えていた。

「ベンチを見ても、仲間のプレーを応援することもなくバットを振っていたり…。なんだか雰囲気が暗いし大丈夫かな、と。そんな時にちょうど電話がかかってきた。後悔だけはしないようにと伝えました」

宮本はその後、チーム最年長の立場で何度もヘッドスライディングを続けるなど、泥臭く仲間に訴えかけるスタイルを選んだ。

「彼は、プロ野球選手は野球でつながるしかないと考えた。一生懸命1つのアウトを取る、1つの塁を盗む。背中で引っ張る形でまとめていったんです」

チームは長嶋茂雄監督が脳梗塞で指揮を断念するというショックを乗り越え、アテネで銅メダルを獲得。先輩が心から宮本をねぎらったのは言うまでもない。

杉浦には3大会を経験して、苦悩する後輩の姿も目の当たりにして、確信した考えがある。想像を絶する重圧とも闘う五輪野球には、沈んだムードを一変させられるキャラクターが必要不可欠なのだという。

「短期決戦に落ち込んでいる時間はない。切り替えの連続で戦うことが重要になる。そういう中では、表現は悪いかもしれないけど、バカができる選手の存在がすごく大切なんです」

19年秋に「プレミア12」で頂点に立った侍ジャパン戦士の中では、「盛り上げ番長」ソフトバンク松田宣浩の振る舞いに注目した。

「本当にいい役割をしている。新しく入った選手にも気を使いながら、どうやったらチームが盛り上がるかを常に考えている。そういう選手は大事です」

「ミスターアマ野球」の言葉には、重みがあった。【佐井陽介】

(敬称略、所属チーム、肩書は当時、つづく)

◆杉浦正則(すぎうら・まさのり)1968年(昭43)5月23日、和歌山県生まれ。橋本高から同大、日本生命に進み、92、97年の都市対抗Vで、ともに橋戸賞(MVP)受賞。3大会連続五輪出場で、通算1位の5勝。現在は日本生命首都圏法人営業第四部・法人部長。