春日部共栄(埼玉)の硬式野球部を開校当時から45年間率いている本多利治監督(67)が、来年3月末で勇退する。生まれは高知・四万十。令和の今では高校野球界の主流となった「選手の自主性」を早くから重視した指導者でもある。「フッハハハハハハハハハッ」の高笑いに彩られた歩みを全4回でたどる。

野球部員のスピーチにおどけた顔をする春日部共栄・本多監督(撮影・金子真仁)
野球部員のスピーチにおどけた顔をする春日部共栄・本多監督(撮影・金子真仁)

時は昭和40年代、高知・四万十。日本有数の清流と名高い川は令和の今よりもっと澄んでいたから、ビビッた。67歳になった本多監督は楽しげに回想する。

「最初は怖かったなぁ。流れもあるし、何よりも水がきれいすぎて、川底まで見えちゃうんです」

高知の清流には増水時に沈まぬよう、欄干のない橋が多く架かる。「沈下橋」と呼ばれるそこから川へ飛び込むのが、夏の極上の楽しみだった。

「足から行ったり、勇気出して頭から行ったり。慣れたら面白くて仕方ない。水中ゴーグルをしてモリで魚を突いて、河原で焼いて食べる。うまいんですよ~、あれが。モリで自分の手を突いて、貫通した人も見たことあります。うわ~~~~っって」

目を見開いて60年近く前の1シーンを再現する。近所にある有名な赤鉄橋からも飛び込んだ。「橋の上からじゃなくて橋の土台からね」。でも四万十で暮らしたのは12歳まで。小学6年生にして人生が変わる。

東京6大学の法大でプレーした岡本道雄氏が卒業後すぐ、母校の高知高の監督に就任した。当時はプロ野球の南海ホークスが、母の郷里である隣の黒潮町でキャンプを行った。岡本氏とともに法大でプレーした富田勝氏が南海のドラフト1位ルーキーだった。

「岡本さんと富田さんがね、うちのおふくろが中村(四万十市の中心部)でやってたスナックに飲みに来て。サインもらって。もう、そこで決めました。高知中学に行こうって」

三角ベースの野球で遊びながらの塾通い。「俺、一生のうちで一番勉強したかもしれない」。電車に揺られて3時間、高知市内での勉強合宿にも参加した。そうして入った高知中学。「いきなり高校の寮に入れられたんですよ。小学校出たばかりの中学1年生があの世界に飛び込んで、いま思うとね、ほんとよくやったなと思うよ。すごい世界だったもん。明日は帰ろ、明日は帰ろ。そんな毎日。でもね、自分で決めたことだったから」。母なる四万十とはまるで違う、激流のような環境で身も心もはぐくまれ、高知高では甲子園に3度行った。主将として全国制覇もした。

その大偉業に胸を張るよりも「我々の時はまだラッキーゾーンがあってね。俺は入ったと思って走ったら、フェンスに直撃してパパンと打球が返ってきて、セカンドでアウトになってもうビックリしたよ。フッハハハハハハハハハッ」。そうやっていつも豪快に高笑いする人だ。

日体大を卒業し、高知高の教師を夢見た。しかし空きがない。指導者に呼び出された。「東京のお花茶屋に共栄学園っていう女子校があって、それが春日部に男女共学の学校を作ると。野球部も作って、監督を探してるってことなんですよ」。とりあえずの気持ちで面接に行った。

「専用グラウンド、寮、雨天練習場を作ると。力を入れるということは当然、何年後に甲子園とかの話が出るじゃないですか。一切出なかったんですよ。それが決め手でした」

ただ、春日部の地を踏んだ時の記憶は今も鮮明だ。【金子真仁】(つづく)

◆本多利治(ほんだ・としはる)1957年(昭32)9月30日生まれ、高知県中村市(現四万十市)出身。高知高で3度甲子園に出場し、3年春に全国優勝。80年に春日部共栄監督に着任し春夏合計8度、甲子園に出場し、93年夏は準V。