平成の初め、プロ野球界は「西武黄金時代」の真っただ中にあった。森祗晶監督に率いられた1986年(昭61)から1994年(平6)までの9年間で、リーグ優勝8回、日本一6回。他の追随を許さない圧倒的な強さを誇った。今年1月に81歳を迎えた名将が当時を振り返った。

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巨人との90年(平2)日本シリーズについて記す前に、潮崎哲也に登場してもらおう。ドラフト1位右腕は4月14日のダイエー戦の大ピンチでデビューし、見事に後続を断った。監督の森は「結果を出せば、想像していた以上の戦力になってくれる」とリスクを承知の上、あえて投入した。

今季まで西武2軍監督を務めた潮崎。ピンチでの初登板を「緊張はしたけど、準備はしていた。プロって、こんなもんかと思った」と懐かしんだ。ルーキーゆえの怖いもの知らず…もあったかも知れない。森の意図を聞くと、うなずいた。

「今、選手から監督という逆の立場になって、僕もそう思う。ドラフト1位で入ってきて、プレッシャーに負けるのか、それとも力に変えるのか。見てみたいよね。自分は、1次試験に合格したんだね。アドレナリンが出て、気持ちよく投げられた」

リスクに打ち勝ったことが、成長につながった。ほほえんで続けた。

「『プロでもいける』と小さな自信になった。歯が立たないことは、ない。ルーキーのころは、どうしても自分の立ち位置を探してしまう。当時のライオンズは全てのピースがそろっている中、唯一、リリーフだけそろっていなかった。そこに、はまった」

なぜ、当時の西武は強かったのか。

「選手がそろっていたし、集団としての意識が高かった。仕事の意識が。なれ合いではなく、ダメなプレーに対しては選手から指摘が出ていた。石毛さん、辻さんを中心にね」

2年目の91年、こんなことがあった。前年ほどの投球ができていなかったが「若い方を」の意図があり、鹿取よりもいい場面での起用が増えていた。ふがいない投球が続いていたある日の試合中、マウンドに来た石毛に厳しく言われた。「お前の背中は、みんなが見てるんだぞ」。潮崎は目が覚めた。

「投げやりになっているつもりはなかったけど、ハッとさせられた。どんな展開でも、そう見えてしまってはいけないし、ファンに失礼。そうならないようにプロ野球人生を全うしたつもり。自分が思っている以上に、表情が周りに与えるものは大きいと考えるようになった。いつでも前向きにいこうと」

当然のように、選手が選手にダメ出しできる。それが西武黄金時代だった。(敬称略=つづく)【古川真弥】