プロ野球の歴史は、グラウンドにだけ刻まれるものではない。スタンドにだってある。現地観戦派のファン3人が語る、もう1つの「平成プロ野球史」。第1回は横山健一氏がロッテ愛を語る。

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少年時代からのオリオンズファンが高じて応援団員となり、ロッテ本社に入社した私が、球団職員となったのは1993年(平5)のことです。川崎から千葉に本拠地を移して2年目。移転初年度の熱気はどこへやら、スタンドでは、私もいた応援団が、内野席で小さな和太鼓と笛の三三七拍子で音頭を取り、右翼席では若い応援団が、法被を着てトランペットを吹く。まばらな内野席のファンは、当時の球団カラー、ピンクのメガホンをパカパカ鳴らしているだけでした。

「マリンをなんとか満員にしたい」と考えていた私は、自分が楽しいと思ったことは、必ずみんなが楽しいと感じてくれるという確信と、ひとつアイデアがありました。

応援団員のころ、選手と同じユニホームを着て応援していました。実に誇らしく、気持ちいい。「みんなで、これを着りゃいいじゃん」。新しく始まったJリーグのサポーターが、まさしくそれで、野球観戦にはない文化でした。

95年、アイデアを実行します。ボビー・バレンタイン監督の就任とともにユニホームを一新、かっこいい白地のストライプ柄になった。「このユニホームで、マリンを真っ白に染めよう」。原価をかけて、レプリカユニホームをファンクラブの入会特典につけました。木綿の簡素なものでしたが、刺しゅうなどにはこだわったユニホームは、すごい勢いで広まった。シーズン半ばには、外野席ではユニホームを着ていないと居づらい空気ができていました。

メガホンをやめて、声と手拍子による応援が広がったのもこの年からです。声の応援は選手に伝わり、球団とファンに一体感が生まれました。世界のプロスポーツや音楽に親しんだ若い人たちが応援に加わって、プロ野球の球場では見たことも聞いたこともない、独特の応援歌と応援スタイルを築いていきました。

バカにしていた千葉の人たちも、1度来れば、ユニホームを着て熱狂的に「千葉!」を連呼し、歌って跳んでという応援に魅了された。郷土愛も呼び覚まされて、たちまちファンになった。「ロッテの応援はカッコよくて楽しい」との評判が評判を呼び、右翼はいつも満員になった。右翼席は、ロッテファン専用の「応援席」としました。野球をじっくり見たい人や、他球団ファンとのトラブル防止の目的もありましたね。プロ野球初の試みでした。

応援スタイルの変化は、ファンの気質も変えました。

98年、プロ野球記録となる18連敗中のことです。連敗が大きく伸びた、ある日。大勢のファンが千葉マリンを取り巻き、大きな声を上げていました。暴動か、と近藤昭仁監督は怖がって球場を出ようとしない。私が「大丈夫ですよ」と送り出すと、ファンは拍手で迎え、こんな歌を歌っていました。

<歌詞>俺たちの誇り 千葉マリーンズ どんな時も俺たちがついてるぜ

罵声を飛ばすファンは、ひとりもいなかった。近藤監督は泣いていましたね。ユニホームが作った一体感が、新しい応援文化を誕生させた-。大げさですが、昔の球場を知っている私は、そう感じました。

今、一体感のある応援を来場の楽しみのひとつにするファンも増え、高価なユニホームが飛ぶように売れる。スタンドが一色に染まる光景も珍しくありません。応援の方法と風景は大きく変わりました。30年も前、私が思い描いた応援の形が、現実のものになったのです。【秋山惣一郎】

◆横山健一(よこやま・けんいち)1963年(昭38)東京都生まれ。東京スタジアム時代からのロッテファン。内野応援団員を経て、86年、ロッテ本社入社。93~14年、球団でファンクラブの運営、ファンサービスの責任者などを歴任。18年からプロ野球OBクラブ事業部部長。

横山健一氏
横山健一氏