平成元年生まれの野球人が時代の節目に思うことは-。第3回はヤクルト田代将太郎外野手(29)。土壇場の経験が人間を大きくする。【取材=保坂恭子】

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僕は1回、死んでいる身なので、もう何も怖くないです。プロ6年目の17年、西武で初めて開幕スタメンを経験しました。でも全然ダメ。1軍の経験が少なかったので、パニックでした。練習はいい感じなのに、応用ができない。ぶっちゃけ今だから言えますけど、素振りの仕方すら分からなくなりました。打席に入った瞬間、スイングの仕方が分からなくなるんです。

クライマックスシリーズでメンバーを外れ、フェニックスリーグの参加中に「明日、午後2時に事務所に行って」と言われ、戦力外通告を受けました。ほんの2、3分。つらくて不安で、野球はやめるつもりでした。もういいやって。お世話になった人たちに電話して、言いづらかったけど親にも連絡しました。(元西武で現ヤクルトの)河田さんにも電話しました。そしたら「明日から、体を動かせ。やる、やらないはいいから。とりあえず動かせ」と言われて。言葉通りに翌日から練習を始めました。

あとはチームメートだった渡辺直人さんから電話をもらいました。「絶対にとってくれる球団あるから、やれ。生活のためにやれ」と言ってもらって。感謝ですよね。あの電話がなかったら、今やってないんじゃないかなと思います。

トライアウトを経て、ヤクルトさんに声をかけてもらいました。ヤクルトは練習が本当にきついけど、ありがたいことに充実感がありました。去年は自己最多の73試合に出場して、1年のほとんどを1軍で過ごせました。みんなに「やめなくてよかったね」と言われました。本当に感謝です。

チームにプラスになるために、試合に出てナンボだと思っています。高校時代、東海大四から本当は東海大に行きたかったんです。同級生で、セレクションを受けたのは僕1人。監督と一緒に上京して、大学の練習場に行きました。ピリピリした雰囲気の中で受けて、結果は「特待生では取れない」。2~3人しかいなかった特待生は、今の巨人の菅野投手と、広島の田中内野手です。話したこともないし向こうは知らないと思いますけど、僕の記憶には残っています。

個人の成績はいいんです。チームがどうやったら良くなるのか、プラスになれる存在、仕事ができるんだというところが一番かなと。今は死にものぐるいでやっています。1回終わったから、分かったことはいっぱいある。打席では「死んでも打ってやる」という気持ち。チームに必要とされる選手になって、1年でも長く野球を続けたいです。(東京ヤクルトスワローズ外野手)