全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える今年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。名物監督の信念やそれを形づくる原点に迫る「監督シリーズ」の第13弾は、大阪桐蔭を率いる西谷浩一さん(48)です。


 西谷さんは、春夏通算5度の甲子園優勝の実績を誇ります。その指導力の原点とは、屈指の勝率の裏にあるものは…。西谷さんの物語を全5回でお送りします。

 3月4日から8日の日刊スポーツ紙面でお楽しみください。


 ニッカン・コムでは、連載を担当した記者の「取材後記」を掲載します。



 中田翔(日本ハム)との3年間に、大阪桐蔭・西谷浩一監督は悔いを残す。投手・中田を育てきれなかったからだ。

 入学直後の中田は、投打で注目のスーパールーキーだった。1年夏の甲子園デビューは、まさに「1人KK」。投げて桑田真澄(元パイレーツ)打って清原和博(元オリックス)と、高校1年生の体の中にPL学園(大阪)の伝説のコンビが同居していると、紙面で伝えた。

 西谷監督にとって、中田は教え子史上最強の投手になる可能性を秘めた逸材だった。投手・中田を育成するとき、横浜(神奈川)・松坂大輔(中日)のイメージを追った。球威はもちろん、投手としての頭、センスの良さを中田は併せ持っていた。だが、右ひじの故障が中田を襲った。

 「故障がなかったらどんな投手になったかなという思いは今でもあります。無理させたつもりもないし、投げ方も悪くないし、体もしっかりできていた。でもちょっとぴりっと(右肘に)電気が走った、みたいなことを言ってきたんで、ちょっと(間を)おこうかと言っていたら1年間、本当に投げられなくなった」。2年春のことだった。

 投げられない間、中田の体つきは打者のものになっていった。プロ球界待望の右の長距離砲として、打者・中田の評価はぐんぐん上がった。そして故障が治り、マウンドに復帰したとき、投手・中田のイメージは以前とは違うものになっていたという。

 「最後に147~8キロ出たんですけど、僕らが思っている中田のボールじゃなかったです。すごいなと思っていた中田の、2年春までのボールじゃなかった」。投球を見守り、失われたものの大きさをかみしめた。

 ケガさえなければ、どんな投手になったのか? 永遠に見つからない答えだ。

 独創的で根気強い育成力で多くの才能を育て、西谷監督は40代半ばで名将の仲間入りを果たした。チームを率いても好結果を積み上げ、3月23日開幕のセンバツで史上3校目の春連覇を狙う。だが育てきれなかった才能への思いを、ずっと抱き続けている。【堀まどか】