板東は準々決勝となった魚津戦でも三振を積み上げた。9回を終えて12奪三振。徳島商捕手の大宮秀吉は1年秋から板東を女房役として支えた。

 大宮 最初にバッティング練習を終えると、その後はずっと板東の球を受けっ放しでした。監督の座っているベンチ裏にブルペンがあったから、常に見られていたのでごまかせなかったんです。とにかく投げる。ひたすら投げるんですから1日300球は投げた。毎日じゃなくても1000球に到達した日もあったかもしれません。だってあたりが暗くなって、ぼくが「もうボールが見えません」と言うまで投げるんですから。板東の球は速くて、コントロールがいい。ホップするんです。魚津には打たれる気がしなかった。

 大野中時代に投手だった大宮は、中学3年時に板東中の板東と投げ合って0-7で敗れていた。徳島商に投手で入学したが、監督の須本憲一は1年秋から板東をレフトから投手に、その女房役に大宮を抜てきした。

 大宮 ストレートだけでは球数が増えるから「インコースを使ったり、カーブを投げたらどうだ」と言ったことがあります。板東は1度は取り組んだが、1週間ほどでやめるんです。シュートのサインをだしても打球がボテボテになってゲッツーがとれないでしょ。結局フォークのサインをだしたし、必然的に三振をとるにはストレート勝負になりました。

 実は、板東の真っすぐ一本というピッチングには秘密が隠されている。

 板東 僕はカーブが投げられなかったんです。だって生まれながら右手の指の曲がり方に癖があったからです。

 実際本人が右手のひらを前に出し、親指、人さし指と順番に曲げると中指と一緒に薬指が曲がった。利き手を自在に使えなかったのだ。そのためカーブ、スライダーなど手先をうまく使う球種は苦手。必然的にストレートで勝負せざるを得なかった。

 初戦(2回戦)は秋田商を1安打完封で17奪三振。続く八女戦は15三振を奪った。準々決勝の魚津戦は延長戦に突入。「剛の板東」に対抗したのが「柔の村椿」だった。

 板東 ムラツバキ? なんかきれいな名前やないですか。それに比べてバンドウって、強盗みたいですがな(笑い)。

 その細身の右腕・村椿輝雄はひょうひょうと投げ続けた。徳島商を10回から15回まで無安打に抑え込んでいく。その間、許したのは1四球だけだった。約60年前の快投を演じたもう1人のエースは「また板東が私をダシにしてテレビで司会をしてるんじゃないですか」と笑いながらなつかしんだ。

(敬称略=つづく)

【寺尾博和】

(2017年5月2日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)