女神は、PL学園にほほえむかに見えた。84年夏の甲子園。取手二との決勝で、敵将・木内幸男の知略がPL学園の夏連覇を阻んだ。9回、先頭の清水哲が同点ソロ。右手中指の痛みに苦しんでいたエース桑田(現スポーツ報知評論家)を救ったかに見えた。そこで木内は先発のエース石田文樹を右翼に下げ、左腕の柏葉勝己をマウンドへ。4番・清原和博を迎えたところで再びエースを登板させる継投で、流れを断った。取手二の主軸で現在は新日鉄住金鹿島監督・中島彰一は、18歳の夏を振り返る。

 中島 勝因はやっぱり、9回のワンポイント継投だと思います。一瞬にして流れを止めた。

 采配だけではなかった。ベンチに戻ったナインを、木内は「せっかく甲子園で決勝戦ってんだから、1イニングでも長くやっぺよ」と励ました。

 中島 何で同点にされるんだと怒られると思っていたら、真逆でした。普段はよく叱られた。でも甲子園に来たら、好きなようにやらせてくれた。監督のそれも人心掌握術でした。

 思いもかけない木内の激励で気力を取り戻した取手二が延長10回、桑田をとらえた。160球目を中島が決勝3ランに。4-8でPL学園は敗れた。被安打12、失点8は桑田の甲子園ワースト記録だ。

 桑田 練習試合では大差をつけたチームに、なぜ負けたんだろうとずっと考えていました。

 2カ月前の練習試合では13-0と圧勝していた。「なぜ」を消化するため、桑田は秋の国体後、取手二に足を運んだ。PL学園は寮生活のため、よほどの理由がない限り外出は認められない。異例の行動だった。

 桑田 取手二の野球は、僕がそれまで知っている野球観とは全く違いました。そこで彼らはどういう環境で、どんな練習をしているのか、自分の目で確かめたいと思いました。

 全寮制のPL学園とはかけ離れた世界が取手二にはあった。当時の取手二ナインは、男女交際OKで、彼女からもらったお守りを首から下げる選手もいた。監督木内の繰り出すアイデアも規格外だ。甲子園大会中のこと。初戦・箕島戦の前には勝った場合、ご褒美として、海に連れていくことを約束。実際に海水浴場に繰り出したりしていた。

 高校日本代表で親交を深めた取手二の選手は、桑田を快く迎え入れる。

 中島 普通の県立校だったんで、桑田君はびっくりしていました。

 ハード面だけを見れば、野球部専用のグラウンドを持つPL学園を上回るものは見つからなかった。ただ石田や主将・吉田剛らの家も行き来し、対戦だけでは分からなかったものを桑田は見つける。

 桑田 目指しているゴールが同じでも、そこに行く方法論はいくつもある。寡黙に、苦痛に耐えて笑顔を見せない。そういう昔ながらの野球観だけじゃないんだ。

 取手二の「のびのび野球」からは、失敗を恐れずプレーし、笑顔で野球を楽しむというスポーツの原点を再確認することができた。野球に取り組む際の多様性を肌で感じることができた。桑田は、その後の野球人生でも生きる大きな学びを得た。(敬称略=つづく)

【堀まどか】

(2017年6月7日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)