徳島市の南、紀伊水道沿岸にある小松島市で畠山は育った。池田で3年生の夏に甲子園出場を果たすが、それより前に1度だけ、あこがれの地を訪れたことがあったという。

 「イレブン(さわやかイレブン=池田が74年センバツに11人で出場し準優勝)のとき、たまたま甲子園に応援に行ったんです。ぼくらはアルプススタンドに少年野球チーム・和田島かもめのユニホーム姿でいましたが、それが地元紙に掲載されたんですね。新聞にそういうふうに取り上げられたことも、池田高校と何かの縁があったのかなと思っています」

 小学生時代に池田の出場を通じて甲子園を味わった。中学生になり、進学先の選択肢に池田を加えたのは自然な成り行きだった。

 「僕の実家は海の方です。初めて池田を見に行ったとき、進学するかどうかまだ決定はしていなかったのですが、車で向かっていくと山がどんどん迫ってくる。最後にぴょこんと学校があって、すごい所だなと思った」

 実際、池田で校舎の屋上に立つと視界360度に山が映る不思議な体験をする。

 「でも、あそこだから、3年間なんとかできたのかもしれません。何もなかったから。池田ではないどこかに行ってたら、どうなってるかわからない」

 学校の北側を吉野川が流れ、池田ダムがある。このあたりは吉野川の中流域だ。校庭を出発して川を渡り「西山」を目指す往復ランニングは、池田野球部の名物トレーニングだった。

 「実は、工業高校の建築科へ進学という考えもあったんです。父が左官屋で、祖父から2代続く家業だったものですから」

 父親の匠は漫画「巨人の星」の星一徹のような一面もあったという。

 「左官屋で使う投光器で家の前を照らすんです。田舎だから家の前は広く、マウンドをつくってちっちゃいときから夜に練習しました。父はサウスポーですが、左官屋は右で仕事をしなければならないそうで、そのため相当苦労もしたようです」

 筋金入りの父が相手をして、畠山は後に甲子園で優勝する投手へと育っていった。小学校卒業時は身長160センチ少しで普通だったというが、中学校で180センチ近くまで伸びた。

 「最終的に池田へ決めたのは、ぼくが中学3年だった夏(79年)に、甲子園で準優勝していることも理由にありました。その年の池田は春夏連続甲子園出場ですしね」

 野球部監督、蔦文也の自宅は池田町の旧街道筋にある旧家で、応接間に有名な墨書きがあった。

 山あいの町の

 子供たちに

 一度でいいから

 大海(甲子園)を

 見せて

 やりたかったんじゃ

 小松島の海のそばで育った畠山は池田の山懐で力をつけ、大海に出た。82年夏、第64回全国高校野球選手権大会の徳島代表として甲子園に乗り込んだ。そこには全国から古豪、名門も集まっていた。(敬称略=つづく)

【宇佐見英治】

(2017年7月4日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)