最後の夏は大いに盛り上がった。1979年(昭54)。激戦区だった大阪大会の決勝は、香川を擁する浪商とPL学園が激突した。PL学園は前年夏の甲子園で優勝していた。舞台になった2万3000人収容の日生球場は、試合開始1時間前に満員札止め。球場に入れない約1万人の高校野球ファンが周りを取り囲んだ。

 浪商は初回から香川、森川公彦らの適時打で大量5点を奪って主導権を握った。牛島和彦は大会7戦目で6試合目の先発(1試合は山脇光治が先発、牛島がリリーフ)。センバツ後は腰痛が悪化し、夏の予選にはさらしをまいて臨んだ。

 その牛島が1回裏、この大会初めて失点するが、その後を踏ん張った。浪商打線は12安打を集中し、9-3でPL学園を振り切った。香川は2安打で3打点をたたきだした。

 最近の高校球児は、甲子園出場を決めたゲームセットの瞬間にバッテリーが抱き合い、ナインが人さし指を立てるなどして歓喜を表現するケースが多い。しかし、牛島と香川の勝利の儀式は、抱き合うこともなく簡単に握手を交わすだけだった。

 牛島 う~ん…。なんなんでしょうね。なんか、ませてたよね、あのチーム。だいぶすれたオッサンのチームやった気がするね(笑い)。PL(学園)には1年から1勝2敗できた最後の夏でしたからね。香川によって注目度が上がったのは事実です。でもぼくも自信つけてましたからね。新聞でも「香川-牛島」のバッテリーって書かれるんです。「牛島-香川」のバッテリーじゃないですか。逆でしょ。ちょっとシャクに障りますよね。

 浪商は1961年(昭36)に全国制覇した第43回大会以来、18年ぶりの夏の甲子園出場。時のエースは2年生で「怪物」といわれた豪腕、尾崎行雄だった。1年夏からエースで3季連続の出場。優勝したその年に浪商を中退し、当時は破格の5000万円の契約金で東映入り。開幕を17歳で迎えたプロ1年目の翌62年に20勝を挙げて、史上最年少の18歳で新人王を獲得。球速160キロを超えたといわれる、伝説のピッチャーだった。

 香川は歓喜の大阪大会制覇を振り返っていた。

 香川 名門浪商の復活ですわ。ぼくらは大先輩の尾崎さんが日本一になった年に生まれた。いい巡り合わせです。試合後のインタビューでも「PLに勝ったんやから全国制覇です」と話したと思いますよ。

 V候補筆頭の浪商だったが、上尾(埼玉)との1回戦から大苦戦した。下手投げの仁村徹に完璧に封じ込められ、8回を終えて0-2で、9回も2死まで追い込まれた。その絶体絶命の場面で、牛島が執念の同点2ランを放って追いつく。そして延長11回に4番山本昭良が決勝打を放って3-2で競り勝った。

 コマを進めつつ重苦しい雰囲気に包まれていたが、それを振り払ったのは、ドカベン香川の1発だった。2回戦の倉敷商(岡山)戦の6回の攻撃。1点を奪って、なおも一、三塁で2ボール後の3球目を振り抜いたライナー性の打球は左中間スタンドで弾んだ後、勢い良くラッキーゾーンに跳ね返ってきた。チームは活気を取り戻した。史上初となる甲子園3戦連発のドラマの始まりだった。(敬称略=つづく)

【寺尾博和】

(2017年8月1日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)