2014年(平26)センバツ、21世紀枠の1校に大島が選ばれた。鹿児島の離島から初出場。優勝した龍谷大平安(京都)に初戦で大敗したが奄美大島に大きな勇気を与えた。あれから4年。野球部自体も周囲の環境も大きく変わった。さまざまなハンディを乗り越え、21世紀枠で聖地に挑戦した当時のナインの思いは、「実力での甲子園」挑戦へと受け継がれている。

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 今年5月中旬の練習後、大島ナインは緊張感に包まれていた。4年前のセンバツに出場した際の主将・重原龍成(熊本大4年)と、5番打者・泊慶悟(大東文化大4年)が教育実習生として母校を訪れ、練習を見守った後、あいさつをしていた。「悔いが残らないような練習をしてほしい」という泊の言葉に、ナインの背筋が伸びた。

 高校入学に際して、2人とも鹿児島市内の強豪から誘いがあったが断った。

 重原 やっぱり島の球児としての意地というか、離島から甲子園に出ていないのでそれをやりたいと思った。もし野球がだめでも勉強もある。親元から通った方が環境もいい。

 泊 いとこが鹿児島の私立に行っていて話を聞いていたが、みんな島に残る話もあったし自分も、と思った。

 島のハンディは実戦が足りないこと。年に3回の遠征もフェリーで夜出発して翌朝着く約10時間の船旅で鹿児島にも沖縄にもでかけていった。経済的な負担も大きい。さらに「ハブが出る危険の中、練習する努力」もあった。13年秋の県大会で4強。21世紀枠出場につながり夢はかなった。

 センバツ直後に大島に赴任し現在監督を務める塗木(ぬるき)哲哉(50)は「町は大島ナイン一色で盛り上がった」と当時を振り返る。練習場のバックネット裏には「結の力 聖地に立つ」と書かれたセンバツ出場の記念碑が設置されている。現在、建築中の室内練習場もセンバツ出場時の寄付のおかげだ。

 過去10年の春、夏、秋の公式戦を振り返ると、大島はセンバツ出場までは県8強以上は1度もないが、センバツ出場翌年の15年春からの10大会で8強以上が5回(そのうち4強が3回)と強豪校の仲間入りを果たすと、環境が激変した。

 塗木 昔はお金と時間をかけて、はるばる練習試合に出かけていったが、今は逆になりつつある。島のハンディがあると思われているうちはまだまだ弱い証拠。強くなれば、みんなが来てくれる。

 一昨年は沖縄水産と鹿児島実が奄美大島に来て練習試合を組んだ。今年5月には「奄美フレッシュリーグ」と名付けて、沖縄工、鹿児島などの1年生中心部員が集まって練習試合も行った。島の逸材が鹿児島市内の強豪に引き抜かれる時代から、現在は鹿児島市内から大島へ入学する選手も現れた。

 重原は卒業後、熊本大に進学し野球を続け、今年の九州地区大学南部九州ブロックの熊本地区予選で初優勝に貢献した。

 重原 センバツに出場したことはどんな場面でもアピールポイントにできた。将来は先生になって母校の指導ができればいい。

 離島から甲子園へ。これからの大島ナインは、それが珍しくないことを証明することだろう。(敬称略)【浦田由紀夫】