作家・重松清氏(55)の2回目は、100回大会以降の将来的な高校野球の展望などについても話してもらった。【取材=千葉修宏】

      ◇       ◇

 100回大会にあたって思うのは、負けたら終わりという夏の甲子園の価値観は残しつつ、それ以外に別の価値観をつくれないものかということ。高野連も監督もすべて含めて、甲子園ひとつしか見てないと、やっぱりゆがんだ勝利至上主義になっちゃう。

 でも甲子園って永遠のものでしょ。甲子園そのものを変えていくのはオールドファンをはじめとして抵抗ある人が多いと思う。じゃあ例えば高校サッカーがプリンスリーグをやっているように、地元紙とかローカルテレビ局が連動して、甲子園とは別に地域でリーグ戦をやったり、カップ戦をやったりできないだろうか。

 今のままだったら1回負けたらおしまいだし、練習が99%、試合が1%で、そのうち自分がバッターボックスに立つのは何回あるんだろう…なんてことになっちゃう。甲子園が中央集権的な一点集中型なら、地域のリーグ戦みたいなローカルな物差しを増やして、3年間打席に立つことなく終わってしまうような選手にもプレー機会を与えてほしい。そうすれば甲子園は今の姿のまま残せるんじゃないかな。逆に言うと、今は甲子園にすべてを背負わせすぎなんだよ。

 例えば鳥取県の鳥取西と米子東の定期戦って、彼らにとっては甲子園とはまた別の価値を持っている。僕の母校・山口高校と隣町の防府高校も「山防戦」っていって、ずっといろんな運動部が対抗して試合をしてきた。確か野球部もやってたんじゃないかな。だから「インターハイは遠かったけれども、山防戦では勝った」みたいに、全国大会とは別のモチベーションになりうるんだ。

 プロ野球選手になって名球会に入ったような人が高校時代を振り返って、スパルタやしごきを肯定的に語ることがあるけど、それはあくまでも「勝ち残った部員」の回想だからね。その陰には、才能があっても野球部になじめなくて辞めていったたくさんの選手がいることを忘れちゃいけない。

 野球部に入った子には、たとえ弱小チームの万年補欠でも、野球が好きなまま引退させてあげたい。悪質タックルで記者会見をした日大アメフト部の選手が言った「今はもう、フットボールが好きじゃなくなった」ていう言葉はすごくつらいよね。悔しい思いをして終わったのと嫌いになって終わったのは違う。父親になった時「お父さんはずっと補欠だったけど、野球面白かったから」って言ったら、子供も野球をやるかもしれないじゃない。

 あと最後に、100回大会の契機にまず何を変えるべきかとすれば、開会式、閉会式での長いスピーチをもうやめようよっていうこと(笑い)。本当に暑い時だからね。下手すればオリンピックじゃないけれど「体調を考慮して開会式に参加しません」っていうピッチャーが出てくるかも。ペットボトル持って行進したっていいじゃない。座って話を聞かせてあげればいいじゃない。本当に選手ファーストで考えたら、一番改革できるのはあのスピーチじゃないかな。(おわり)

 ◆重松清(しげまつ・きよし)1963年(昭38)岡山県生まれ。早大卒。出版社勤務を経て、91年「ビフォア・ラン」で作家デビュー。99年「ナイフ」で坪田譲治文学賞、「エイジ」で山本周五郎賞を受賞。01年「ビタミンF」で第124回直木賞を受賞。10年「十字架」で吉川英治文学賞、14年「ゼツメツ少年」で毎日出版文化賞を受賞。現代の家族を描くことを大きなテーマとし、話題作を次々発表している。