朝日放送の看板アナウンサーだった植草貞夫氏(85)は、同局退社後の1998年(平10)第80回大会まで44年間、夏の甲子園の実況を担当した。全国のお茶の間と甲子園をつないだ名アナウンサーは「今のままで選手権の魅力をつないでほしい」と、次の100年を願った。【取材=堀まどか】

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 浪商(大体大浪商)のドカベン香川(伸行氏=元ダイエー)は、亡くなるまで植草氏を「お父さん」と慕い続けた。ケガをおして打った本塁打を「怪物・ドカベン ホームイン!」と実況してくれた。うれしくてたまらなかった。夏の甲子園の輝きを伝える数々の名言を植草氏は残した。

 植草氏(以下植草) 昭和30年(1955年)に朝日放送に入って高校野球をやるようになって、最初は自分の技術を磨く場、くらいにしか思ってなかったかもしれない。それがだんだん、僕自身が高校野球の魅力に取りつかれていった。昭和37年に長女が生まれてすぐ75日で亡くして、すぐに開会式があったんです。人生の試合みたいに感じて。高校生が元気に行進してるのに、うちの娘はなんで死んだんだと。そういうことがあって少しずつしゃべり方が変わってきて。そうこうするうちに次男がPL学園で昭和54年から3年間学びましたから、今度は高校球児の親の気持ちになってきました。

 次男は外野手だった。81年の第63回大会の報徳学園(兵庫)と京都商の決勝。1点を争う攻防で、打球を後逸し、懸命に追っていく京都商の背番号9を放送席で見てたまらなくなった。思わず「頑張れ~」と声が出た。親の思いも、お茶の間に伝えた。

 44年間の夏の甲子園実況で、60年からミュンヘン五輪に派遣された72年を除いて88年まで決勝を担当。「言葉がどうなって出てくるかは自分でも分からなかった」と言うが、まさに瞬間の至芸だった。

 植草 昭和57年か、池田高校が優勝した時、最後に校旗が揚がって蔦さんがアップになった。その時に「59歳蔦監督の青春!」って思わず言った。やっぱり高校野球っていうのは、僕にとったら青春ですから。

 青春の大舞台はこの先、どんな年を迎えていくのだろう。

 植草 僕は今のままでいいと思いますね。細かいことは変わってくるでしょうけど、敗者復活とかはいらない。一本勝負で。代表校の数も、個人の考えですが、1県1校でいいじゃないですか。夏の大会は予選から勝ち抜いてきて、1回負けたら終わりですよね。だから勝って勝って勝ち抜いて、最後に頂点に立ったチームが大優勝旗を手にする。その中で勝って泣き、笑って泣き、負けて泣くというのが日本人の気質に合っているんでしょうね。

 甲子園の空、風、芝生の上だからこそ、生まれるドラマ。それを伝えることは、至福の瞬間だった。だからこそ、植草氏には夢がある。

 植草 生まれ変わってもまた、実況をやりたい。200年の大会もマイクの前に座っていたいです。

 試合の始まりを伝えた名フレーズ「青い空、白い雲…」は、第200回の夏にも広がっている。

 ◆植草貞夫(うえくさ・さだお)1932年(昭7)9月29日、東京都生まれ。早大から朝日放送入社。79年星稜(石川)-箕島(和歌山)戦の「甲子園球場に奇跡は生きています!」、85年の第67回で「甲子園は清原のためにあるのか!!」など数々の名文句で試合を彩った。