人は時に、自分の立ち位置に気付き、適材適所を見つけることがある。野球界とて、例外ではない。怪物松坂と対戦したことで、投手を断念し、打者として大成した選手がいる。

BCリーグ栃木の内野手、村田修一(37)は、NPBで通算1865安打、360本塁打をマークするなど、同世代を代表するスラッガーとして活躍した。そのキッカケが、松坂だった。

東福岡高のエース兼主砲だった村田は1998年春、選抜で初めて甲子園の土を踏んだ。前年の九州大会で4強入りしたものの、全国的にはほぼ無名の選手だった。「自分たちの野球で精いっぱいだった」という村田は、他校の情報はほとんど把握していなかった。ただ、松坂の名前だけは耳に届いていた。

甲子園初戦となった2回戦(対出雲北陵)の試合前。直前の第1試合で横浜松坂が報徳学園相手に投げている姿を見た時の衝撃を、村田は今も忘れていない。

「アップ中、松坂だよ、とか言いながら見たら、なんだ、コレ、プロ野球選手じゃねえか。すんげえボール投げてんな。今日勝ったら次は横浜。こりゃ、ヤバい、という感じでした」

2回戦を快勝した東福岡は、続く3回戦で横浜と対決する。前日の試合後、松坂がインタビューで「2ケタ奪三振目指して頑張ります」と言っていたのを聞いた際、村田は「何が2ケタだ、そんな簡単にいくか」と反骨心を覚えた。だが、そんな気持ちは、試合開始後、すぐに消えた。

「本当にすごかった。140キロを超える真っすぐで音を立てる投手はよくいるんですけど、スライダーもスッーと音を立ててグッと曲がって、これは別格だと思いました。あれを見て、投手で大輔を抜くのは無理だと思いました。対戦して投げ勝つより、コイツの球を打ち返してみたいな、という気持ちが芽生えたのは確かです」

最速143キロの投手村田は、横浜を3失点に抑えたものの、打線は松坂の前にわずか2安打。怪物の予告通り、2桁13三振を喫し、完封負けを喫した。

日大へ進学した村田は、投手を断念し、打者へ転向した。その結果、大学球界を代表する長距離砲に成長し、02年横浜に入団する。

「違う世代に生まれていたら、まだ投手をやっていたかもしれない。大輔を見たおかげで打者としてやってこられた」

昨オフ、巨人を退団した村田は、プレー機会を求めてBC栃木に入団した。だが、今季中のNPB復帰はかなわず、移籍期限となった8月1日、「ケジメ」の記者会見を開いた。「大輔の背中を追いかけてずっとやってきた。同級生たちに引っ張られて、ここまで野球をやれて幸せだった」と語った。その夜、名古屋で4勝目を挙げた松坂は「僕はもがき続ける姿を見せる。自分たちはまだやれるんだと、僕らの世代みんなで見せていきたい。そこにシュウも入ってきてほしい」と、友への想いを報道陣に明かした。栃木と名古屋。離れていても、気持ちは通じていた。

現役を続ける同期も多くいる一方で、楽天平石洋介(PL学園出身)が監督代行に就任。将来、同世代と指導者として対決する夢も、村田の視界をよぎるようになった。

「ぜひ対決してみたいですね。どんな采配をするのか楽しみです」

甲子園で戦い、刺激し合った仲間の存在は、立場が変わっても、かけがえのない、貴重な財産だった。(敬称略=つづく)【四竈衛】

BC栃木で現役を続ける松坂世代の村田
BC栃木で現役を続ける松坂世代の村田