慶応商工主将・黒崎数馬。1929年(昭4)に甲子園で初めて選手宣誓を行った人物として知られるが、他には、捕手でクリーンアップを打っていたことぐらいしか分からなかった。

ところで「慶応商工」という学校は、もうない。戦後の学制改革に伴い廃止され、一部が現在の慶応高校に引き継がれている。慶応義塾広報室に問い合わせ、かつての慶応商工野球部の関係者を探してもらったが、廃止された学校ということもあるのだろう。残念ながら、見つからなかった。

手がかりを求め、都内の国立国会図書館に通った。1冊の本に行き着いた。75年発刊「慶応商工七十年誌」。卒業生たちの寄稿文を集めたものだ。600ページを超える大部に、今はなき母校への思いが詰まっていた。1ページずつ繰っていく。見つけた。


「甲子園球場奮戦物語」第二十二回B組有志雑談会


冒頭はこうだ。


「第二十二回B組藤井武夫、黒崎数馬、松本正吾、内村一男君らにより商工野球部第十五回全国中等学校選抜野球大会に初出場」


これには誤りがある。「第十五回」とあるのは、正しくは「第六回」のはず。慶応商工は29年に甲子園に春、夏とも出場した。雑談会は第15回大会の夏ではなく、第6回大会の春のセンバツについてのものだった。数字を混同したのだろう。なお「第二十二回B組」とは、卒業年次の第22期生で、A、B、Cと3クラスあったうちのB組という意味。甲子園出場の翌年、30年3月の卒業生たちだ。

雑談会は75年4月23日、東京・信濃町の慶応健康相談センターで行われていた。出席者は6人。黒崎数馬はいない。29年春のセンバツで広陵中と戦った1回戦(6-13で敗退)をイニングごとに振り返っていた。

当時の野球部の様子も語られている。練習がスパルタ式で厳しく、1年のうちボールを握らなかったのは正月元日だけ。毎年20人ほど入部したが、あまりの厳しさに1週間で3、4人まで減った。出席者の1人で、黒崎のクラスメートだった藤井武夫(外野手)は、こう回顧している。

「僕と黒崎とはよくこれに堪えたが、帰宅時間が遅くなるので黒崎と私の母とが泣いて愚痴を言い合っていたと云うことである。負けじ魂と好きでなければ出来なかったことである」

黒崎は、主将にふさわしい練習の虫だったのだ。これまでは「初めて選手宣誓をした人物」としか描けなかったが、具体的なイメージを伴い、目の前に現れた気がした。さらに「七十年誌」には、貴重な情報が埋もれていた。巻末の卒業生名簿だ。住所と電話番号が付いていた。「第二十二回B組」に目を走らせる。いた。黒崎数馬が、いた。少なくとも「七十年誌」が編さんされた75年当時、つまり戦後30年の時点で、黒崎数馬は存命していた。

すぐに記載の電話番号にかけてみたが、もう使われていなかった。住所は都内。子孫が住んでいるかも知れない。(敬称略=つづく)

【古川真弥】

(2018年4月12日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)