広島・廿日市市。野球が盛んな、人情にあふれた街で中井哲之は生まれ育った。誰かがけんかで負ければ助けに行き、話し合いをさせる。小さい頃からガキ大将だった。「廿日市ジュニア」で野球を始めたのは小学4年生の時。周囲には野球好きな大人がたくさんいた。平日の夕方は仕事が終わり手の空いた人が練習を手伝い、休日には打撃投手も務めてくれた。自分の息子がチームを卒業しても教えに来る、面倒見が良く温かい人に囲まれていた。

中井の父千之(ちゆき)もその1人だった。中井の小学4年時のこと。当時の6年生が県大会の決勝で、完全試合を喫して敗れた。すると当時の監督が、突然辞めると言い出した。チーム存続の危機で、立ち上がったのが千之だった。野球は未経験だったが「こんな負け方で終わっちゃいけない。これじゃいけんやろ。この子らは負けてずっと逃げていくんか」と、父は代表を名乗り出た。負けず嫌いで、物事を途中でやめることが許せない一本気。そして人情味は人一倍だった。千之は、人によって給料日が違うからと会費を待つのもいとわなかった。母子家庭など会費を納めるのが難しい子がいれば、身銭を切るような人でもあった。

中井 完璧に、頑固おやじですね。お母さんも良く耐えるというか、我慢するというか昔の人ですね、お互いに。代表の子だからって(自分が)優遇されるのをすごく嫌う親だったから、一番厳しかったと思いますよ。「殴るならうちの子を殴れ」というような。

小さな電気店を営んでいた父は、毎晩のようにコーチや関係者を家に呼び、酒や食事を振る舞った。母弘美は文句も言わず料理を作り、夜遅くに皆が帰った後、片付けをしていた。見返りを求めず、人のために身を粉にする姿が、そんな日常にあった。

中井は78年に広陵に入学する。背景には千之の一言があった。広島商が73年春から3季連続で甲子園に乗り込むなど出場回数を重ねる傍ら、広陵は72年夏を最後に甲子園から遠ざかっていた。広陵は73年に広島市安佐南区(当時の安佐郡沼田町)に移転したばかりだった。当時は電車も通っておらず、中心地に出るには1日にバスが数本しか出ていなかった。生徒数は減り、それにともなって野球部も低迷。中学生の中井は、広島商か崇徳で野球をしたいと考えていた。そんな時、当時の広陵の校長が中井の家を訪れた。広陵野球部の「復活」を期し、思いを伝えに来たのだ。千之の心が動かないはずがなかった。「お前みたいな、くそがきに、学校の校長先生が一緒に頑張ろうと言ってるんや。そんな校長先生おるんか。お前、男なら弱い学校強くしてみい」。中井は広陵へと進学した。

中井 「強いとこ行ったら誰でも勝つわい」と。これが始まりですよ。でも広陵に来てなかったら、今の僕の人生は無いから。甲子園に行けたかどうかも分からないし、どんな人生を送ってたかも分からない。

父に導かれて入学した広陵。あえて厳しい道を選び、甲子園へと挑もうとした。しかし、中井を待っていたのは野球どころではない、理不尽な日々だった。(敬称略=つづく)【磯綾乃】

(2018年2月13日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)