元阪神の森忠仁さん(56)は、日本プロ野球選手会で事務局長を務めている。2004年の球界再編騒動でけん引役となった前事務局長の松原徹氏が、15年9月にがんのため急逝した。この後を受けて重職を担っている。


笑顔で現役時代からを振り返る森さん
笑顔で現役時代からを振り返る森さん

 森さん(以下、敬称略) 大きな問題は松原事務局長の時代に解決していますから、選手会の新たな方向性を考えていく必要があると考えて臨んできました。


 年俸の事前通知やセカンドキャリアなど、個々の選手に寄り添った改革に取り組んでいる。球界再編騒動やフリーエージェント(FA)権の短縮などのように、派手な報道はされない。だが、地道ながら着実に歩んでいる印象がある。


 森 セカンドキャリアについては、選手の選択肢を増やしていきたいと考えています。現役中からなのか、引退してからなのか。どんなサポートができるか迷いながら取り組んでいきたい。


 選手会が手がけた「イーキャリアNEXTFIELD」という支援サービスでは、引退選手が専用サイトで求人情報を検索でき、就職までコンサルタントのサポートを受けられる。

 昨年末には国学院大と、セカンドキャリア特別選考入試に関する協定を結んだ。選手会の推薦を受けた者が進学すれば、入学金や年間学費を奨学金として受け取れる制度である。


 森 契約金をもらってプロ野球に入ってくるけど、辞める時は「お金がない」という。OBの方にもいろいろ話を聞いて、何か現役選手に参考になることはないかなと。退職金みたいなものはできないか。就職するときに「野球しかやってこなかった」と言うけど、次のステージに移行するまでに研修などもできないか。いろいろ考えて取り組んでいきたい。


 選手会の事務局長として、プロ野球選手のセカンドキャリアに積極的に取り組んでいる。

 森さんも元プロ野球選手だった。自身のセカンドキャリアはどうだったのか。振り返ってもらった。


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 森さんは千葉出身で、幸町一中学では軟式と硬式を両立していた。どちらも投手か内野を守っていた。


 森 珍しいかもしれないけど、先輩もそうやっている人が多かったんですよ。平日は軟式の部活で、週末は千葉ジャガーズというポニーリーグのチームで硬式をやっていました。ジャガーズは巨人の高橋由伸監督も所属していたチームですね。


キャッチボールする阪神森忠仁(1984年撮影)
キャッチボールする阪神森忠仁(1984年撮影)

 中学3年ではポニーリーグの全日本選手権大会で優勝し、日本一に輝いた。


 森 決勝では帝京、ホンダからヤクルトにいった伊東昭光(江戸川ポニー)と投げ合ったんですよ。


 日本一投手になり、この年に夏の甲子園に出場していた千葉商へ進学した。1年春からベンチ入りした。


 森 ベンチには入っていたけど、高校ではとにかくケガが多かった。肘、肩、あと腰も痛めてしまった。ひどい時は箸も持てないぐらいでした。休んだり、接骨院に通ったり。自分たちの代ではエースでしたが、完全には投げられませんでした。


 2年秋にアクシデントが起きた。秋季大会に臨んでいた最中、すでに引退していた先輩が問題を起こし、半年間の対外試合禁止を課された。


 森 最初は1年間ダメかなと、もう終わりかなと思っていたんです。でも、半年ということで、夏に向けてやるしかないという気持ちでした。


 春季は千葉県大会で準優勝した。決勝で習志野に敗れた。


 森 夏は習志野を倒すのが目標でした。お互いAシードなので決勝で戦うだろうと。


 だが、準々決勝で成東に敗れた。0-1の僅差だった。


 森 もともと監督が決めていた予定で、私が先発して3回を投げる。そのあと1学年下の後輩が3回を投げて、また私が戻ることになっていた。でも、後輩がボークで1点を取られてしまった。結局マウンドには戻りませんでした。


 ボークによる失点が決勝点になってしまった。


 森 私はノーアウト満塁で見逃し三振したんですよ。カウント3-2から自信を持って見逃したらストライクを取られました。まさか負けるとは思わなかった相手でした。悔しかったですね。


 進路は大学、社会人も視野に入れていたが、プロ球団のスカウトから評価されていた。


 森 もちろん直接は話していないけど、監督のところにはプロの話があった。行けるものなら行きたいと思っていました。ケガの不安はありましたが、子どもの頃からの夢でした。まずはプロに入ることが目標。あとは、活躍してお金を稼ぐということしか考えていなかった。


 当時のドラフトは各球団が4人まで選択し、重複した際は抽選するシステムで行われていた。原辰徳内野手(東海大)、石毛宏典内野手(プリンスホテル)が注目された年だった。

 ここでは指名されず、ドラフト外で阪神に入団が決まった。ドラフト1位は中田良弘投手(日産自動車)、2位は渡真利克則内野手(興南)だった。


1983年6月6日、ウエスタンリーグ近鉄戦で打席に向かう阪神森忠仁
1983年6月6日、ウエスタンリーグ近鉄戦で打席に向かう阪神森忠仁

 森 当時の安藤(統男)監督から、投手と野手のどちらでいくかという話がありました。最初は様子をみてと、キャンプは両方やりながらでした。でも、肩と肘に不安もあったんで、自分の中ではほぼ野手という形でした。


 外野手に転向し、1、2年目はウエスタン・リーグでも出場機会は少なかった。だが、3年目の83年には45試合に出場した。翌84年には68試合で5本塁打、23打点をたたき出した。この年の秋にはフロリダ教育リーグにも参加した。


 森 4年目は開幕から調子がよくて、5番も打たせてもらいました。


 4年目の1985年(昭60)といえば、阪神が21年ぶりのリーグ優勝と球団初の日本一を達成した年である。


 森 あの年はなかなか(1、2軍の)入れ替えがなかったんで、厳しかったですね。秋には再び教育リーグでフロリダに行きました。本当はそっちに行ってちゃいけないんですけどね。


 1軍の壁は厚かった。1軍の機会がないまま、プロ6年目の86年限りで戦力外通告を受けた。


 森 シーズン中に2軍監督だった中村勝広さんから「審判にならないか」という話がありました。先輩でなった方もいたし、同期の橘高(淳)も審判になった。ちょっと考えましたが、自分の中で「野球はプレーするもの」という思いが強くあった。それで審判の話はお断りしました。


 現役続行の道を探り、ヤクルトのテストを受けた。だが、結果は不合格で、球界を離れることになった。


 森 大阪から千葉に帰ってきて、学生時代からお世話になった方に相談しました。社会を知らないでしょう。社会勉強もした方がいいと言われました。


 就職したのは証券会社だった。最初の仕事は「場立ち」といって、証券取引所の立会場で手サインを使って売買注文を伝達する役目を担った。(つづく)【飯島智則】