8月29日に閉幕した甲子園大会で、堅田外司昭さん(59)が審判生活に別れを告げた。一塁塁審を務めた智弁和歌山と智弁学園(奈良)の決勝が、堅田審判にとっての引退試合となった。「次の世代に渡したいと思って(退くことを)決めました」。閉会式を終え、球場から出てきた堅田さんは穏やかにそう話し、審判仲間と肩を並べて甲子園をあとにした。

79年夏の甲子園大会3回戦で、箕島(和歌山)と延長18回の激闘を繰り広げた星稜(石川)のエース。高校球史に残る伝説の投手が、プロ野球史の伝説と顔を合わせた瞬間があった。15年8月7日、甲子園。夏の大会が100年目の夏を迎えた大会の開幕戦で、早実(東京)の元エースのソフトバンク王会長が始球式に登板した。堅田さんは、その試合の球審を務めた。

マウンドの王会長。その傍らに立つ堅田球審を見て、79年の星稜-箕島戦に携わった関係者から聞いた話が頭の中によみがえった。

「もう1度ご覧なさい」

18回を投げ終えてグラウンドを去る堅田さんに、永野元玄(もとはる)球審は声をかけた。その声に、堅田さんは振り返った。カクテル光線に浮かび上がる青い芝。甲子園が別れを惜しんでいた。

「1人で投げ抜いた堅田君に、何かをしてあげたかった」。永野球審はボールを差し出した。箕島が放ったサヨナラ打のボールは左翼から戻り、本塁をカバーした星稜の加藤直樹一塁手のグラブの中にあった。だが、それは箕島の勝利球。「堅田君に、それはあげられないと思った。それで試合中に使ったボールを渡そうと思った。まだ負けていなかったときのボールをあげたかったんです」。熱闘の余韻がさめやらない試合後、永野球審はそこまで考えて記念球を選んだのだ。

精いっぱい投げた208球目をサヨナラ打にされたエース。疲れた体と心に、球審のねぎらいが染みた。甲子園との縁は、切れなかった。堅田さんは審判員になり、甲子園に戻ってきた。

それだけでもドラマのような出来事なのに、100年の夏の開幕戦で球審を務める重責を担った。夏の光の中、王会長と並んだ姿に、人生の不思議があった。力の限り208球を投げ抜いたあの夏から、100年の夏への道は始まっていたのかもしれない。ただ、1歩1歩実直に歩んできたからこそ、道は続いたのだ。【堀まどか】(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「野球手帳」)

第61回全国高校野球選手権 星稜のエースとして活躍した堅田外司昭投手(79年8月撮影)
第61回全国高校野球選手権 星稜のエースとして活躍した堅田外司昭投手(79年8月撮影)