札幌など7地区で代表決定戦が行われ、1987年(昭62)創部の札幌平岡が江別に4-3で競り勝ち、3季通じて初の道大会出場を決めた。1日は札幌、小樽地区で代表決定戦5試合が予定され、南北大会の出場校が出そろう。

   ◇   ◇   ◇

創部33年目の札幌平岡が、新たな歴史を刻んだ。1点リードを守り抜き、南大会切符を勝ち取った。15年夏、昨秋に続き3度目の地区代表決定戦挑戦でつかんだ悲願の道大会。就任6年目の浦島裕司監督(46)は「いつやられるのかドキドキしていた。歴史を変えるぞと言ってきたが、選手たちと一緒に成し遂げられて本当にうれしい」と感激しきりだ。

流れを引き寄せたのは背番号9の“秘密兵器”白浜優真(3年)だ。投手兼外野手で、1、2回戦は登板なし。この日も右翼で先発し、5回表無死二、三塁で二塁後方に貴重な同点打を放ち、この回3得点の逆転を演出した。その裏から登板すると、5回を1安打無失点と好救援。浦島監督は「安定感では(先発の)諏訪間(大=2年)だが、球威は1番。勝負はここだと、白浜を取っておいた」。投打で活躍の白浜は「監督の狙いにこたえられて、良かった」と振り返った。

日体大OBの浦島監督のアイデアで、昨秋の地区敗退後、柔道部員が帰宅後の柔道場を借り、畳の上での素振りを導入した。「王さんも畳の上でやっていたと思って。指で地面をつかむ感覚を覚えさせるにはいいかなと」。道場の鏡に加え、部費で鏡を2台購入し、スイングを確認させた。バドミントンの羽根を手で打ち返す練習も交互に行い、主将の佐藤来遊撃手(3年)は「引っ張るだけじゃなく、逆方向に打ち返すことができるようになった」と効果を口にした。

浦島監督就任後、メンタル強化の一環で実施してきた「仮想新聞」も、現実のものとなった。毎年2月、各自が成功の瞬間を想像する編集作業で、白浜は「自分が打ち最後を締めるという新聞をつくった。その通りになった」と驚いた。試合前日、急きょ「江別を破り南大会へ」という“号外”をつくった浦島監督は「次は南大会1勝という新聞をつくります」。夢を可視化し、潜在能力を引き出していく。【永野高輔】

◆札幌平岡 1987年(昭62)4月に創立された北海道立の普通科高校。野球部も同年創部で今季スローガンは「弱くても勝てます。」。浦島裕司監督(46)佐藤方紀部長(47)以下、選手23人(1年7人、2年8人、3年8人)マネジャー3人(2年2人、3年1人)。札幌市清田区平岡4条6丁目13の1。小松信夫校長。今年度生徒数713人。