履正社の岡田龍生監督(58)が教え子の手で3度、夏空に舞った。東洋大姫路(兵庫)、日体大で主将を務め、87年4月に履正社監督に着任。激戦区の大阪で大阪桐蔭と覇を競い、センバツ2度の準優勝を経て、ついに全国の頂点へ。熱血の主将は情熱の指導者となり、令和初の優勝監督となった。

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優勝監督が腕を広げた。松平一彦部長(42)がベンチ後列から駆け上がり、胸に飛び込む。「卒業生、保護者、家族の協力のおかげで日本一を取れました」。苦楽をともにする部長との抱擁に、周囲への感謝を込めた。

学生時代からチームの先頭に立った熱さで、87年春から履正社を率いた。当時は旧校舎で専用球場はなく、11人の部員と石を拾い、他部との共用グラウンドを整備した。「今ある環境で頑張ろう」。岡田履正社のスタートだった。

部長、コーチを兼務し、激務で95年にはメニエール病にかかった。97年夏、小川仁(じん)投手が大阪全7試合を投げ抜き、初の甲子園切符をつかんだ決勝後。日生球場のベンチで、泣いて泣いて泣き続けた。

情熱が、行きすぎた時期があった。01年6月のミーティングで2年生投手を殴り、謹慎に。指導法を見直す転換期になった。痛みではなく言葉で。相手がわかるまで、話し続けた。

保護者にも協力を求めた。「子どもを思わない親御さんはいない。家族にコーチになってもらおう」。12月の保護者面談を習慣化し、自宅と学校の日常を交換し合った。1人で何役もこなした時代とは違い、神港学園(兵庫)の甲子園球児だった松平コーチが00年に着任し、01年から野球部長に。コーチやトレーナーなどスタッフも充実させ、保護者も巻き込む指導環境を作り上げた。

かつては「PL学園に勝たない限り、甲子園への道はない」と言われた大阪。全国王者に懸命に食らいつくうち、履正社に対してはじゃんけんに勝てば常に先攻を選択していたPL学園が、じゃんけんに勝って後攻を取るようになった。相手の変化も自信になった。

「岡田先生は人の痛みがわかる人だから」。学校が全幅の信頼を置くのは、岡田監督の人間力。その力で履正社を1つにし、優勝校に育て上げた。6日の開会式で大阪桐蔭が返した大優勝旗を、教え子と大阪に持って帰る。【堀まどか】

◆岡田龍生(おかだ・たつお)1961年(昭36)5月18日、大阪市生まれ。東洋大姫路(兵庫)では正三塁手だった79年センバツで4強。日体大から社会人の鷺宮製作所を経て、85年から桜宮(大阪)のコーチを務め、87年春に履正社監督に着任。夏は97年、春は06年に甲子園初出場。14、17年とセンバツ準優勝。主な教え子はオリックスT-岡田、ヤクルト山田哲、阪神坂本ら。保健体育教諭。