黒ふちメガネのサイドスロー。03、04年の東北(宮城)にはダルビッシュというスターと、もう1人の好投手がいた。真壁賢守さん(34)は2番手投手として甲子園に3度出場し、03年夏は準優勝。「メガネッシュ」とも呼ばれた。あれから17年。社会人野球を引退した真壁さんは、会社員として輝いていた。

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白の作業着に高校時代と同じ黒ふちメガネ。真壁さんは「やっと仕事に慣れてきました」と話し、あのころのままの笑顔をみせた。

11年にホンダ野球部を引退し、コーチに転身。16年に野球部を離れ、現在は総務部に勤務する。当初は、社会人として未熟な自分と、過去を語る自分にギャップを感じ「本気で仕事と向きあい、現役時代はしばらく振り返らない」と心に決め、この4年間は何度か依頼のあった取材も断り続けてきた。パソコン、ビジネス敬語の対応など、30歳にして仕事を一から学んだ。

「この3年間は全力疾走で生きてきた」と振り返る。時には課題にぶち当たり、時には上司に意見をぶつけ、新たな展開をみせたこともある。最近では「この仕事に自信がついてきた」とやりがいを感じている。

葛藤し続けた野球人生だった。高校卒業後は常に「ダルビッシュの」と枕ことばがついてまわった。「球場で僕の名前がコールされると、スタンドがざわついているのが分かるんです」。好投できないと「大したことないな」「アイツもうダメだな」と言われているのでは、と下を向いた。周囲が思い描く選手像とのギャップに苦しんだ。社会人になり、あらためて「ダルビッシュ」の存在を考えた。「僕は有がいたから成長できたのに、勝手に重荷にしていた。ライバルだと思ったことは1度もない。僕にとってダルビッシュ有は大きな存在だった」。その答えにたどり着くと、それまでの葛藤は消えていた。

自分らしくあればいい。コーチ業では、あらためて野球の面白さを追求した。指導方法に悩むと、ダルビッシュにメールもした。いい相談相手になってくれた。「コーチ業を経て野球を終えたとき、やりきった実感を手にできました」。今は、野球を好きなままで終われた自分を、幸せ者だと思っている。

野球から離れると決めた時、ダルビッシュにメールをした。「お前のおかげで30歳まで悔いなく野球ができたよ。ありがとう」。心の区切りだった。ダルビッシュからは「俺もお前のおかげでここまで来られた。ありがとう」と返事がきた。「有の『ありがとう』のひと言で、それまでの苦しみが全部、自分の糧だったと思えました」。

今でも野球は大好きで、仕事も大好きになった。「これからは腰を据えて仕事をしたい」。トレードマークの黒ふちメガネの奥で、目を輝かせた。

<取材後記>

実は昨秋、真壁さんは野球部関係者から「もう1度、コーチとして現場へ戻らないか」と声をかけられたという。いつかは戻りたいと思っていた野球界。仕事を経験して戻る野球の現場で、選手たちに新たな何かを還元できるのでは。そんな思いも抱いていた。しかし、出した答えは「NO」だった。「もっと仕事のスキルを磨きたい。この選択には気持ちが揺れなかった。仕事には野球では得られないものがある」。3年がたち、会社での居場所も確立したが、まだまだ上を目指したい。「そう決断した自分にビックリしましたけどね。本当、自分変わったなぁ」。しみじみと言った表情は、充実感にあふれていた。【保坂淑子】

◆真壁賢守(まかべ・けんじ)1986年(昭61)5月3日生まれ、宮城・村田町出身。小4から野球を始め村田第一中ではエースとして全国大会出場。東北ではサイドスローに転向し、ダルビッシュとともに春夏3度の甲子園出場。2年夏の甲子園準優勝に貢献。東北福祉大ーホンダ。現役時代は179センチ、80キロ。右投げ右打ち。