釧根地区で別海が甲子園4度出場の古豪釧路江南を6-4で下し、78年の創部以来、初の北大会進出を決めた。ただ1人の3年生、鎌田拓寿主将が4失点の完投。部員15人で念願の代表をつかんだ。

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別海ナインが跳びはね、歓喜の輪をつくった。釧路江南とのシーソーゲームを制し、初の北大会進出だ。校歌を歌い終え、ベンチに戻った直後には「よっしゃ、スタルヒンだ!」と声が飛び、涙する選手もいた。鎌田主将は「みんなでつかんだ勝利。うれしい」と喜びをかみしめた。

ただ1人の3年生鎌田の努力が報われた。昨秋の地区予選で武修館に0-18の屈辱的大敗を喫した。同期の当時2年生は3人いたが、その負けをきっかけに2人が退部。鎌田だけが残った。まとめるのは大変だったがめげなかった。「3年生が1人で周りから見たら全道なんて無理だろとか、甲子園なんて夢だろ、みたいなのを思われたかもしれない。でも下級生が頑張ってくれたから自分も頑張れた」と振り返る。

この日は先発で9回121球の完投。176センチ右腕は粘りの投球でチームを引っ張った。中学入学当時は身長150センチ未満と小柄だったが「家に牛乳がたくさんあったのでがぶ飲みしてました」。日本一の生乳産地・別海町生まれの右腕は学校の給食時のほか、家で毎日1リットルパックを飲み干すのが当たり前になるなど、牛乳がパワーの源だ。

15年秋に5校連合で出場したが、翌16年春に10年北大会で武修館を準優勝に導いた島影隆啓監督(39)が就任。この5年間、町の協力で遠方選手の宿舎を用意するなど、コンビニエンスストア副店長の異色監督のもと挑戦してきた。島影監督は就任後、17、18年夏に2度代表決定戦敗退があり、「三度目の正直で達成することができて本当にうれしいです」と涙した。

通算6度の代表決定戦敗退を経て、創部54年目でつかんだ北大会。鎌田は「しっかりと甲子園を目指して、負けてしまったチームたちの重い思いも背負って、自分たちができる野球を精一杯したい」。スタルヒン球場で別海旋風を巻き起こす。【山崎純一】

◆別海の道大会 過去、春と夏は未出場で秋2度。初出場だった00年は1回戦で北見緑陵に1-11。19年は初戦の2回戦で東海大札幌に0-7で敗れた。

〇…かつて町名は「べつかい」「べっかい」が混在したが、71年町制施行の際「べつかい」とされ、道路標識のローマ字も「Betsukai」表記。その後も議論は続き、町は07年に町名呼称検討委員会を設置。09年3月に当時の町長が双方の読み方を認めると宣言した。

 

●3年ぶりの北大会進出はならなかった釧路江南・宮崎知聖(かずさ)主将(3年) やっぱりヒットが2本しか出ていないとなかなか点数を取るのは難しい。もっと3年生が攻めていけたらよかった。