野球人生最後の秋を迎えていた。センバツをかけた公式戦。負ければもう甲子園の土を踏めない。東洋大姫路(兵庫)の藤田明彦監督(65)は腹をくくった。
「本当は打のチームを作りたい。でも、打線に軸がいない。この時代ですが、徹底してバントをする。昭和の野球を久しぶりにしようと。最後のチームなので元に戻そうと思いました」
打線は弱くエース森健人投手(2年)頼みだった。昨年9月23日、兵庫大会の報徳学園戦。0-0の延長10回、先頭の6番が四球で出塁。打力が弱まる下位打線に向かうが、犠打を命じて二塁進塁。2死後、9番村崎心捕手(2年)が左前に決勝打を放った。藤田監督は「以前なら、中途半端に打たせた。(村崎は大会で)たった1安打が一番大事なところで出た。勝ちに不思議あり」と謙遜するが、冷静に戦力を見極め、采配で手を尽くしてこそ、9番打者の快打が生まれた。
「無手勝流。ない手で勝つのが俺のスタイルだ」
同校でプレーし、恩師の田中治監督から何度も聞いた。73、74年は夏の甲子園出場。鉄拳も辞さず、厳しい時代だった。3年の兵庫大会。ある試合で最終回2死二塁のサヨナラ機を迎えた。一塁へのゴロは急に跳ね、一塁手が捕れずファウルゾーンへ。勝者の整列に決勝のホームを踏んだ二塁走者がいない。ベンチで田中監督から叱られていた。
「アウトだと思って、力を抜いて走っただろ!」
東洋大、東芝でプレーを続けた藤田監督は晩年の田中氏に、あの叱責の意味を聞いた。「全力疾走は人生につながる。人生を一生懸命、生きてほしいから、手を抜いたらあかん。凡打の時に性格が表れる。それを直したかったんや」。あのときは聞けず、ずっと心に残っていた。また、あるとき、田中氏から戦時中の青年時代を聞いた。「予科練の生き残りで、昭和20年8月20日に特攻隊員として飛ぶ予定だった」。太平洋戦争の終戦は8月15日。初めて恩師のルーツを知った。
「死線をさまよったことが野球に生かされている。だから野球にスキがない」
凡打も、攻守交代も、カバリングも全力で走る。甲子園春夏5度指揮のベテラン監督が理想にする姿だ。昨秋の近畿大会。大阪桐蔭戦で悔しがった。「私がしたかったことを徹底してやっておられた。まったくスキがない。負けたあと、ウチの子に言った。『見たやろ。あれだけ能力がありながら、ちゃんとやっている。ウチもやろう』と」。試合中、相手はボールボーイも全力疾走していた。最後の春、ナインに求めたいことがある。「全力を出し切ってほしい。最後まで走りきりなさいと。その上で勝ちたいんです」。白球に生かされた者だけが歩む花道がある。【酒井俊作】

