エンゼルス大谷翔平投手(27)が459試合目で「ルース超え」のメモリアル弾を放った。米メディアに酷評されることもあった「打者大谷」。投打二刀流として100号到達までには、何度もターニングポイントがあった。「才能+経験+反骨心」が可能にした節目到達。メジャー1号から取材を続ける大リーグ担当の斎藤庸裕記者(38)が、100号までの軌跡をたどった。

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100号までの道は波が激しかった。1年目の開幕直後、3戦連発で能力の高さを証明。春のキャンプ中に米メディアから「高校生レベル」とまで酷評されたが、疑問視されていた打者大谷への見方を自力で覆した。4月、ヤンキースの右腕セベリーノから内角速球を弾丸ライナーで本塁打とし、同投手には「もう内角は投げない」と言わしめた。打者デビューの始まりは、衝撃的だった。

最初の転換点は18年5月16日のアストロズ戦。現役最強右腕の1人、サイ・ヤング賞3度のバーランダーに4打数3三振。コテンパンにされた「高めの速球と低めの変化球」のコンビネーションはその後、克服すべき大きな課題となる。大谷は当時、「すごく勉強になりました。こういうチャンスがないと、気付かないことがあると思う」と振り返ったように、メジャーの厳しさを教えられた。

史上7人目の3000安打&500本塁打の偉業を成し遂げ、12年の3冠王カブレラ(タイガース)には1年目から「彼は打てるんだから、もっと試合に出るべき。3冠王も取れる」と一目置かれた。しかし、好投手との初対戦は、完敗の連続だった。当時ヤンキースに在籍した田中将大(現楽天)には変化球主体で抑えられ(2打数2三振)、剛球左腕チャプマンには力でねじ伏せられた(2打数無安打)。「何事も経験」と捉え、「もっとうまくなるため」に打席での工夫を重ねた。不振の時も「事が進んでいる中での停滞。長期的に見ることが大事」と1歩先を見据えていた。

左膝の痛みと闘いながらプレーし、長打が減った2年目の19年。20年は、弱点克服へ打撃改善の過程で大不振に陥った。我慢を重ね、進化を遂げた21年の春。オープン戦での驚異的な打撃に、USAトゥデー紙の看板記者ボブ・ナイチンゲール氏は「もしかしたら、すごい外野手になっていたかもしれない」と評価し、野手としてもさらに可能性を秘めていることを指摘した。シーズンでも打ちまくり、他球団の捕手からは「トラウト級の警戒度」とされ、メジャー最高の野手と称される同僚トラウトと同等レベルにまで上り詰めた。打者大谷の評価は、いつの間にか“メジャーで通用する”から“トップクラス”に変わっていた。

昨季は46本塁打で、超一流打者の地位を確立した。一方で、後半戦の失速、打撃タイトル獲得を意識しながら2本塁打差で敗れたことは、さらに高いレベルの課題として残った。屈辱の連続で、落ち込むこともあった。自己分析し、はい上がり、挽回する。その繰り返しで到達した100本塁打。投打でプレーしながら、今後はいかに長くトップレベルを継続できるか。目指す世界一のプレーヤ-への道はまだまだ続く。

◆ルースの100号 データサイト「ベースボール・リファレンス」によると、通算714本塁打を放ったベーブ・ルース(ヤンキース)の100号は1920年9月24日。通算529試合目、1923打席目だった。

◆日本人最速ペース 日本人大リーガーの通算100本塁打は松井秀喜175本、イチロー117本に次ぐ3人目。100号到達時の年数は松井秀喜の5年目と同じだが、試合数で177試合、打席数で953打席上回る最速となった。なお、100本塁打は大リーグ公式サイトによると通算959人目。日本のプロ野球では304人が記録している。

◆大谷の1号 大リーグ移籍後初アーチは18年4月3日インディアンス戦。8番指名打者で出場し、1回2死二、三塁からエンゼルスタジアムの右中間に3ランを放った。本拠地初打席での1発。ベンチでは出迎えなく無視される儀式「サイレント・トリートメント」を受けた。