苦労人が再出発の日に、大きな白星を運んできた。中日の07年高校生ドラフト1巡目、赤坂和幸外野手(25)が7年ぶりに1軍に昇格し、代打でプロ初打席初安打を決めた。決勝点の起点となる貴重な一打。投手として入団し、戦力外通告、育成選手契約、そして野手転向。苦難の道のりを経て、8年目で初めて1軍のお立ち台にたどり着いた。

 広島側から中日ベンチに記念ボールが戻された。ルナがスタンドに放り込むふりをする“お約束”をしたが、一塁塁上の背番号69は「余裕がなくて全然気付きませんでした」。まさに無我夢中だった。

 0-0の6回。力投する八木の代打で出番が来た。相手は中日打線が25イニング無得点だった天敵ジョンソン。2球を見逃し、追い込まれた。「塁に出ることしか考えていなかった」。3球目の低く沈むチェンジアップに必死に腕を伸ばした。小飛球は二塁菊池の頭上を越えて中前に落ちた。

 二塁進塁後、荒木の二塁打で決勝の先制ホームを踏んだ。ベンチで出迎えた谷繁兼任監督は破顔一笑。「監督の顔が一番印象に残っています」。指揮官も「今日一番うれしかった」と苦労人の働きをたたえた。連敗ストップの白星の中心に、赤坂がいた。

 年俸440万円。高卒1年目より160万円も減った。浦和学院ではエースで2度の甲子園出場。投手として高校生ドラフト1巡目指名を受けた。日本ハム中田、ヤクルト由規の年だ。1年目に1軍デビューを果たしたが、1軍では9球を投げただけで3年で戦力外通告。同時に育成での再契約、そして野手転向を告げられた。「終わりと思った。続けられたのは感謝しかない。投手への未練はありませんでした」。プロ入り後の3年間はほとんどバットを握っていない。その年の7月には父秀和さん(享年54)を病気で亡くした。高校58本塁打の打力を取り戻すべく、深夜までバットを振る日々だった。

 昨年7月13日、ついに野手として支配下登録された。球団から伝えられると、その足で交際1年1カ月の恋人の元へ走り「結婚してください」とプロポーズ。オフに婚姻届を提出した。その約1年後にナゴヤドームのお立ち台に立った。「夢のようでした」と目を潤ませた。

 夫人は朝早く夜が遅い2軍生活が続いても欠かさず食事を用意してくれた。記念のボールは妻の元に届ける。今オフには挙式・披露宴を予定する。「クビになって式をやりたくないですから。やるしかないです」。がけっぷちからはい上がった男の戦いはこれからも続く。【柏原誠】

 ◆赤坂和幸(あかさか・かずゆき)1989年(平元)9月4日、神奈川県生まれ。浦和学院ではエースで主砲。夏の甲子園に2度出場。07年高校生ドラフトで1巡目指名を受け、投手として中日入り。08年の西武戦で中継ぎとして初登板。1軍出場はその1試合だけ。11年から育成選手契約で野手登録。昨年7月に野手で初めて支配下登録された。185センチ、83キロ。右投げ右打ち。

 ◆1軍出場ブランク 中日赤坂が08年6月1日西武戦(リリーフ登板)以来、7年ぶりに1軍で出場。戦争を挟んだり、大家友和(12年ぶり)田口壮(9年ぶり)らのように大リーグから久しぶりに復帰した例はあるが、他球団へ移籍しない長期ブランクは珍しい。現役では13年にロッテ青松が7年ぶりに1軍出場している。