プレーバック日刊スポーツ! 過去の11月6日付紙面を振り返ります。1995年の3面(東京版)はオリックスがリーグ優勝を記念したパレードを実施。その様子を伝えています。

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 復興神戸がイチロー・Vフィーバーに沸いた。リーグ優勝を果たしたオリックスが5日、オープンカーなどに乗って神戸市内をパレードした。沿道にはイチロー見たさに約15万人が詰め掛け、「おめでとう」「イチロー!」の大声援。昨年の17万人を集めた長嶋巨人のVパレードに負けず劣らずの盛り上がりだった。

 乱れ飛ぶジェット風船、舞う紙吹雪。鳴り響く爆竹、そして青い空に広がるシャボン玉。あの関西大震災から292日。神戸の街が歓喜のウズに包まれた。5台連なったオープンカーと2台のフロート(山車=だし)。その先頭では、あのイチローが手を振っている。

 「今の大変な時期にこんなことをしていいのかと思う方々もおられるでしょう。だから、きょう、こんなにみんなが来てくれてホッとしました」。イチローを感激させた人出は、神戸の人口の10%に当たる約15万人。昨年、東京で行われた長嶋巨人の日本一パレードは約17万人。数こそ少ないが、何より、まだ復興途上にある神戸の状況を思えば、その数の意味が分かる。

 「イチロー!ありがとう」。若い女の子から、中年の男性から叫び声が上がる。勢いはついに規制用のサクをなぎ倒し、「背番号51」に迫る。

 警備は厳しかった。所轄の生田警察署と兵庫県警機動隊から189人、主催の復興委員会が用意した警備スタッフは200人。

 だが、殺到するファンに囲まれるのを避けるため先導車のパトカーは自然にスピードアップ。当初1時間のパレード時間は、終点の神戸ハーバーランドについてみれば35分。勢いに押されての時間短縮だ。終点でも混乱する。イチローはテレビ取材用に用意していたハイヤーに乗り込めず、いったん強引にバスに乗り、ほかの場所に移動してから乗り直すハメに。まさにうれしいパニックだった。

 パレードのラスト、イチローはかぶっていたブルーウェーブの帽子を人垣の中に放った。「自然にそうしてしまった。パレードは気持ちいい。来年、日本一になってもう一度やりたい」。当たり前のことを聞くなと言う表情が、気概を表す。震災から立ち直ろうとする街に、暗い世相の日本に明るさと力を与える。1995年11月5日は、そんな男の新しい出発点となる。

<過去のVパレード>

◆西鉄

 1957年(昭32)=日本シリーズで巨人を4勝1分けで破り、福岡に帰った後、21台のオープンカーに分乗し市中をパレード。沿道の10万人のファンが三原監督以下、全ナインを祝福した。

◆南海

 59年=杉浦の4連投で巨人に4連勝。シリーズ終了6日後の11月4日に大阪球場に集合し、11台のオープンカーで御堂筋をパレードした。杉浦が涙したことから「涙の御堂筋パレード」として語り継がれている。

◆阪神

 62年=2リーグ分立後、初のリーグ優勝を達成。V決定2日後の10月5日に甲子園球場を起点として東は尼崎、西は神戸市役所までをパレードした。

◆広島

 75年=球団創設26年目で初のリーグ優勝。公式戦終了の翌日、10月20日にオープンカーで平和大通りをパレード。30万人もの市民が詰め掛け「赤ヘル」に歓声を送った。

◆巨人

 94年(平6)=まさに長嶋監督のいう「国民的行事」の感があったパレード。10月30日、東京・大手町の読売新聞社前をオープンカー7台、バス1台で出発。途中、いたるところで大混雑となり、4キロの行程を1時間3分かけてゴールした。沿道のファンは17万人と発表された。

※記録と表記は当時のもの