プロ野球阪急(現オリックス)、日本ハムで指揮を執った上田利治(うえだ・としはる)氏が1日午前2時55分、肺炎のため川崎市内の病院で死去した。日本ハムが2日、発表した。80歳だった。阪急時代に上田氏の下でエースとして活躍し、75年からの3年連続日本シリーズ制覇にも貢献した日刊スポーツ評論家の山田久志氏(68)が悼んだ。葬儀・告別式は6日に営まれる。

 上田さんは激情の人だった。普段は温厚なのに、いざグラウンドに入ると熱くなって、激しく振る舞った。阪急を強くしたい一心だったに違いない。

 広島で実働3年だけの捕手だった上田さんを、阪急のコーチに招き、監督に推したのは西本幸雄さん。名将の眼力だった。

 (三羽がらすと呼ばれた)門下生の私、福本(豊)、加藤(秀司)が円熟していたから、阪急が勝つと、常に「西本遺産」といわれた。しかし、上田さんは自らの情熱で常勝チームをつくり上げた。もっとも輝いたのは3年連続日本一を成し遂げた時代だろう。75年広島を下して球団初の日本一、76、77年は巨人を倒した。阪急を「球界の勇者」に育てたのは、上田さんの手腕だった。

 しかも、厳しい指導とともに、勝つたびにチームを刷新する。DH制が導入された75年はベネズエラ出身のボビー・マルカーノ内野手を獲得(同選手は阪急、ヤクルトで通算1418安打)。76年は日本一になった直後に、中日と4対3の大型トレード(阪急は稲葉光雄、島谷金二、大隅正人を獲得。中日は森本潔、戸田善紀、大石弥太郎、小松健二を獲得)を敢行したのは驚きだった。血の入れ替えを図って刺激を与えながら勝利に導いた。