監督としては、南海、ヤクルトなどで指揮を執った野村克也氏の「考える野球」を意識していたふしがある。当時はあり得なかった一、三塁からのヒットエンドランなど奇策は、上田さんの発想によるものだ。

 特に短期決戦では緻密なデータに基づいた作戦を駆使し、自分は「野村野球」の上をいってやるんだという気概も感じた。大変な読書好きで、遠征先にも必ず手元に4、5冊の本を置く勉強家だったのも思い返される。

 西本さんから受け継いだ「阪急魂」を継承し、阪急ブレーブスの黄金期を築かれた上田さんは、まさに名監督だった。心より哀悼の意を表したい。(元阪急投手、日刊スポーツ評論家)

 ◆上田利治(うえだ・としはる)1937年(昭12)1月18日生まれ、徳島県出身。関大時代に故村山実氏(元阪神)とバッテリーを組み、59年に広島入団。捕手として3年間で121試合に出場、2本塁打、打率2割1分8厘。62年から広島、阪急のコーチを歴任し、74年に阪急監督に就任。優れた統率力で阪急を常勝チームに変え、75年から3年連続で日本シリーズ制覇に導いた。78年のヤクルトとの日本シリーズ第7戦で本塁打の判定を巡り、1時間19分抗議した。その責任を取って辞任したが、81年に復帰して阪急、オリックスで10年間指揮を執った。95年から5年間は日本ハムの監督を務めた。監督通算20年間の成績は1322勝1136敗116分け。最下位の経験は1度もなく、リーグ優勝が5度、日本一は3度。監督時代には「ええで、ええで」と選手を褒めることでも有名だった。2003年に野球殿堂入りを果たした。