緑色に染まった客席を見て広瀬叔功さんが首をかしげて言う。「なんじゃ、これ」。8月2日、広島市のマツダスタジアムで行われた広島対阪神戦は「ピースナイター」だった。5回裏終了時、ポスターを掲げる人であふれた。記者席で近くに座っていた広島担当の前原記者が説明している。

 「赤いポスターを持っている人たちは、原爆ドームと同じ高さなんですよ」

 スコアは2-2だった。6回表が始まる。大和が大瀬良の速球に空振り三振。梅野も球威に押されて二ゴロ…。その時だった。広瀬さんは口を開く。「君ら、原爆を知らんだろう」。目の前では試合が粛々と進む。戦いを見つめながら、南海ホークスで通算2157安打を放った名球会打者は幼き日を思い起こした。

 「あの日は、鮮明に覚えているよ。小学3年だったな」。1945年8月6日午前8時15分。校庭にいたという。「帯状の光でな、地球全部が光になったんじゃないかと思ったよ。何のことか分からんわな。その2、3秒後にドンッと爆音が響いた。だから『ピカドン』なんだ」。広瀬さんは広島駅からJR山陽本線で30分ほど西に向かう佐伯郡大野町(現廿日市市)で暮らしていた。えたいの知れない音に驚いた低学年の子や女の子は泣き始めた。

 「その直後、朝礼があってな。台の上で校長先生が口をぽかーんと開けているんだ。その正面の空、ワシらの背中側が広島方面だった。見たらキノコ雲が出ていた。夏休みだったから、なんで学校に行ったのか、それだけは覚えとらん。すぐに家に帰れってなって、遊んでいたら、トラックで、顔が溶けた人たちがたくさん運ばれてきた。大野には陸軍病院があったんだ」

 あれから72年がたつ。南海の黄金期を支え、通算596盗塁はプロ野球2位。同僚の野村克也氏がのちにイチローと同列の「天才」と称したほどだ。いまは日刊スポーツ評論家として球場に通う。隣で含蓄のある話を聞かせてもらった。目の前では阪神打線がまだ大瀬良を打ちあぐねていた。

 「大事なのは準備なんだよ。ワシは前の晩、相手先発を想定して素振りをしたものだ。必ず部屋を真っ暗にする。そうすると投手がポッと浮かび上がってくるんだ。稲尾だろ、池永だろ…。彼らを想像して振る」

 8回、松山が右翼に豪快な勝ち越しアーチを放り込んだ。名球会の帽子をかぶった広瀬さんはカクテル光線を背中に受けて、球場を出た。8月27日で81歳になる。山陽本線に揺られ、帰っていった。