1988年(昭63)10月19日。川崎球場で行われたロッテとのダブルヘッダーで奇跡の大逆転優勝を目指して戦った近鉄の夢は最後の最後で阻まれた。あれから30年。選手、コーチ、関係者ら15人にあの壮絶な試合とはいったい何だったのかを聞いた。

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あの日からユニホームを1度も脱いでいない。「ありえないことやけどね」と独特の低音で照れたのは当時入団2年目で、遊撃レギュラーに定着した真喜志康永(58)だった。

◆第2試合 7回表2死、右翼席へ3号ソロを放つ。3-1とリードを広げる一打に川崎球場は熱狂した。

真喜志 自分としてはとらえた当たりだったけど、入るとは思わんかったからね。夢中で走った覚えがある。ただ、印象に残っているのは9回の有藤監督の抗議かな。あの抗議だけはね。めちゃくちゃ長く感じました。

9回裏、二塁けん制の際のタッチプレーを巡り、ロッテ有藤監督の抗議は9分間に及んだ。試合時間制限の4時間に迫る中での猛抗議は今も印象深いようだが、「10・19」の熱い戦いが翌年の優勝につながり、自身の野球生活に多大な影響があったことも間違いなかったという。

真喜志 あの年があったから次の年に優勝できた。仰木さんにショートで使ってもらい、中西さんにハンドリングと小技を徹底的に教え込まれた。あの2年があって、今の自分があるわけですから。

社会人東芝でレギュラーをつかんだのは25歳のときだった。近鉄に入団したのは27歳。守備力を買われ、2年目から遊撃に抜てきされるが、打率は2割に届かない。打撃コーチの中西から徹底教育されたのがバント、バスター、エンドランだった。

真喜志 特にバスター。トップの位置が分かるからと。プッシュバントもよく練習させられました。君のようなタイプはこういうことができなければ生き残れんぞ、と言われてね。

堅実な守備でチームの勝利に貢献する。苦手な打撃はあらゆる小技をマスターすることでカバー。プロとして生き抜くすべを徹底的に教え込まれた。また、チーム内に存在したプロとしてのあり方も強烈な印象として残っている。

真喜志 初めてキャンプに参加したときビックリしました。ランニングしていると、周りから酒のにおいがプンプンしてくるんです。でも、練習が始まるとそんな素ぶりはいっさい見せない。はちゃめちゃなように見えて、実はやることはしっかりやるんです。今では考えられないですが、これがプロの世界なのかと。ああいうチームはもう現れないでしょうねえ。

近鉄での「10・19」は忘れられない思い出であり、また大切な教訓でもある。

真喜志 10月19日は下の子(次女)の誕生日なんです。平成2年生まれかな。いい経験させてもらったと思います。もちろんあのころ学んだことを今も伝えています。若い選手には特にこう言いたい。プレーヤーとしてユニホームを着られる時間はそんなに長くはないんだぞ、と。

32年目のシーズンを終えた。引退後、1度もユニホームを脱ぐことなく、来季は楽天でヘッドコーチの重責を担う。(敬称略)

◆真喜志康永(まきし・やすなが)1960年生まれ。沖縄県出身。沖縄高から東芝を経てドラフト3位で近鉄入団。95年から近鉄、オリックス、日本ハム、楽天でコーチを務める。