10年目のソフトバンク川原弘之投手(27)が貴重な左腕中継ぎとしてチームを支えている。09年ドラフト2位で福岡大大濠から入団も15年に左肩と左肘を手術して育成に降格。だが、今季開幕直前に支配下登録され、登板7試合で防御率0・00の大車輪だ。
チームは首位楽天と0・5差。27日からの日本ハム戦へ気合十分の左腕が、日刊スポーツに復活秘話を明かした。【取材・構成=石橋隆雄】
-支配下に返り咲き、開幕から1軍で投げ続けている
川原 夢みたい。(今の状況は)ありえない。10年目ですが、今が一番野球が楽しいですね。
-四球を出しても、安打を打たれても無失点ということが多い
川原 ゼロに抑えるのは最低限の仕事。四球もどうしようもない四球ではなく、攻めた結果の四球は悪くない。
-打者の内角も積極的に突いている
川原 内角を突こうとはあまり思ってはいない。ぼんやりあそこの辺りに投げられたらいいなと思って投げたらだいたいいきます。
-制球力がついてきた
川原 飛躍的に技術が伸びたとかではない。昨年は四球を出したら、少し引きずっていたが、今年はうまく切り替えられている。
-昔はイップスだった
川原 ケガする前の5年目(14年)、6年目(15年)はもう投げ方が分からなかった。ストライク入らないし、本当に体が固まるんです。僕の場合は頭で考えるから、どこかで変なロックがかかったり、いらない動作が入ったりする。それをどうにかしようとしているうちに15年に壊れました。
-その15年は3月に左肩、11月には左肘を手術
川原 だから…。正直、手術はよかったと思った。投げなくていいから
-15年オフには育成契約に。再び投げることができるまで2年かかった
川原 とにかく一生懸命、この日はランニングだけを頑張ろう! とか思っていた。投げられなくても球団は契約をしてくれているわけだから、適当にできるわけがない。
-毎日、辞めたいとか思うことも
川原 辞めたいとは思わなかったけれど、秋に、ああ、今年でもう終わりだろうなと。電話がかかってくるのが怖かった。
-支えになったのは
川原 斉藤和巳さんですね。(15年に)手術することを報告したら『お前の故障なんてかすり傷みたいなもんや。絶対治るから頑張れ』と。和巳さんの右肩のケガからすればですね。
-ルーキーの10年から引退する13年まで(11年からはリハビリコーチの肩書で)ずっとリハビリを続ける姿を見てきた
川原 和巳さんはどんな時も絶対に手を抜かなかった。それはすごいなと。すごく勉強になりましたね。それは今の僕の土台というか、和巳さんの姿を見て勉強になった部分は本当にあります。
-今は肩も肘も痛くない
川原 今は全然いい。痛くなく投げられるだけで。ストライクが入らないとか、四球出してしまうとか、打たれるとかは、ちっぽけな悩み。投げられないという悩みよりは全然、本当にちっぽけだなと。それも幸せだな、悩めるのが幸せだなと。
-腕を下げて投げるようになったのは
川原 17年のオフからです。
-昨年、4年ぶりに2軍戦に投げた。34試合。1シーズンフル回転は初めてだった
川原 昨年は数字は出たけど、内容的に首脳陣からはまだまだだったと思う。
-昔の158キロと今の152キロの意味は違う
川原 今はスピードを出そうと思っては投げていない。出る分にはうれしいがそこは目指してはいない。
-プロ10年目で支配下に戻った
川原 同期はもう今宮だけ。球団が残してくれたという感じです。5年前に野球が終わっていてもおかしくなかった。本当に。僕の力じゃない。チームの勝利に貢献できるように、これからも与えられた場所で投げ続けたいですね。
◆川原弘之(かわはら・ひろゆき) 1991年(平3)8月23日、福岡市生まれ。小3で左投げに転向。福岡大大濠から09年ドラフト2位で入団。12年7月28日のウエスタン・リーグ中日戦で左腕最速の158キロを記録した。1軍登板は12年2試合、13年1試合の通算3試合。15年3月に左肩、同年11月には左肘を手術した。15年オフから育成契約。背番号は「26」から「122」に。19年の春季キャンプはB組スタートも紅白戦から好投を続け、3月26日に再び支配下登録された。背番号は63。今季推定年俸は500万円。左投げ左打ち。187センチ、93キロ。
▽ソフトバンク倉野投手コーチ(川原について)「ここまでの活躍は期待以上。四球を怖がらないことで、腕が振れている」