かつてプロの世界で活躍した野球人にセカンドキャリアを聞く「ザ・インタビュー~元プロ野球選手たちのセカンドステージ」。今回は故郷・京都で保険代理店業、接骨院、就労支援事業所など多岐にわたって事業展開している元大洋投手の大門和彦氏(54)です。【聞き手・安藤宏樹】
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-10年間、大洋でプレーし、94年に阪神移籍。そのシーズンを最後に引退されたときは29歳でした。
大門氏 阪神を辞め、ソニー生命に入社しました。野球をしているときは世の中のことを何も知らなかったので、最初に考えたことは何がいちばん世の中のことを知ることができるかなということでした。先輩の話なども聞き、保険業界がいいのかなと。最初から決まった仕事に入ってしまうとその業界のことしか分からないだろうという考えもありまして。保険業界ならいろんな世界の方に話を聞けるだろうと。高卒でしたので、なかなか面接もしてもらえない中で、ソニーさんに特別に会っていただけたのです。これでいろんな業種を知ることもできる。中小零細の社長さんにもお話を聞けるだろうと。3年ほどやってどんな仕事がいいのかを決めようという予定でしたが、どっぷりつかった感じです。
-プロ野球選手から保険セールスの世界に飛び込まれたわけですが、どちらも常に結果を求められる厳しい世界だと思います。
大門氏 入社してもプロ野球選手だったことは表に出しませんでしたし、それで続くことはないと思っていましたが、1年目は勢いだけでいけました。しかし、2年目になると枯渇して苦しみました。そんなとき、売り上げでトップを続けている先輩に頼み込み、京都の大原山荘で「保険合宿」をお願いしました。そこでマンツーマンで教えていただいたことが今に生きています。
-保険セールスの極意とは何だったのでしょうか。
大門氏 要は勧めるということではなく、話を聞くということでした。お客さまはどういうことを求められているのか、どういうところに不満があるのか。聞いたことに対して提案書をつくってお答えする。情報収集がいちばん大事だということを教わりました。
-そこから営業マンとして力をつけ、02年に有限会社「アイディーリンク」を立ち上げられたわけですね。
大門氏 ソニー生命で7年9カ月やらせていただいたのですが、そのころちょうど独立制度ができました。当時はお客様を持って出てもいいという制度でしたし、もともと独立したいという思いがありました。
-保険代理店業を軌道に乗せるまでご苦労もあったと思いますが、05年には株式会社「アイディーコンサルティング」を設立されています。
大門氏 何をもって軌道に乗ったか、と言われると難しいですが、社員は4人、5人でスタートしました。人間関係的にいろいろありましてね。素人社長でしたので、遠慮もあったのでしょう。その結果、創業メンバーがバラバラになってしまったことがありました。そこでもう1回新たなメンバーでやり直しました。作り上げるまではトップダウンでいこうと。基本的に仲介業なので業界の度重なるルール変更に左右されたことも大きかったですね。相当振り回されました。
-さらに07年にはアイディーケア株式会社を設立。接骨院経営も始めた。
大門氏 もともとプロに行かなかったらこの世界に行きたかった人間なのです。高校のときは故障ばかりでしたので、卒業したら接骨院の学校に行って、トレーナー的な仕事をしたいなと思っていました。自分で資格は持っていませんので、経営の立場で立ち上げました。
-保険業界から接骨院と事業の多角化に乗り出すわけですが、野球界への未練はなかったのでしょうか。
大門氏 引退するときに野球界とは一線を引いて、なにか土台を作らないといけない。そういう気持ちが強かったように思います。もちろん野球は好きなのですが、そこにしがみつくのではなく、しっかりとした土台を築きたいと考えていました。
-そして各メディアでも取り上げられているエコボール事業につながる障がい者向け就労支援事業にも乗り出されます。ボロボロになった硬式野球のボールを修理する「エコボール」の輪は今や全国の高校、チームに広がっているようです。
大門氏 今、全国で300校になっています。テレビでも取り上げられて、問い合わせも入るようになりました。オフィシャルサポーターのプロ野球OBクラブやロータリークラブなどからいただいた寄付で修理に必要な針や糸を購入させてもらっています。修理代金は1個50円でスタートして今は100円です。すべて修理した障がい者の方の収入となります。
-この支援の仕組みは多くの野球関係者の共感を呼んでいるようです。
大門氏 障がい者として働く人たちの工賃の少なさとかをずっと聞いていたので、何とかならんかなあ、と思っていたときにたまたま母校(京都・東宇治高)に呼ばれまして。そこで山積みになっているボールを見つけました。監督さんに話を聞くと「今の子たちは縫わないんだよ」と。そこでもし、これを障がい者事業でやったらどうなるかな、とフッと思ったわけです。このときはまだ事業所はやっていませんが、いろんな方に話を聞くといけそうだと。それが09年のことで、まずは母校から始まりました。私が事業所(株式会社スマイルワーク)を立ち上げたのはこの秋で5年です。障がい者支援事業に取り組むきっかけは引退して半年後に先輩のすすめでわけもわからずに入会した京都キャピタルワイズメンズクラブでしょうか。そこで出会った人たちの影響があります。
-プロ野球時代の話も聞かせてください。84年、ドラフト4位で大洋に入団されました。
大門氏 高校は強くなかったし、大活躍した記憶もない。ドラフト指名はまさかという感じでした。入ってみて、こんなところ無理やと思いました。
-プロ2年目に4勝をマークされると、92年までに主に先発で36勝。ところが93年オフに大激震に見舞われた。主力選手だった高木豊さんや屋敷要さんなど中堅、ベテランがいっせいに解雇。その中の1人が大門さんでした。当時は巨人からFA宣言した駒田選手を獲得する資金捻出のためでは、とも言われました。
大門氏 全部で15人ですよね。夕方のテレビニュースでキャスターの安藤優子さんが「球界で大変なことが起きました」と。でも、いまとなって冷静に見れば、チームを変えたかったのかなと。5年後に優勝(98年に日本一)もしていますから。そこをどうこう言っても仕方ないのかな、と思っています。
-92年にチーム名が横浜大洋ホエールズから横浜ベイスターズに変わり、球団としての変革期だったのかもしれませんが、野球界の不安定さを痛感された出来事だったと思います。
大門氏 実は前の年に手術して、さあ来季に向けてというときでした。ただ、いずれ(引退のときは)くるな、とは思っていました。ダンプ辻さん(辻恭彦氏=阪神、大洋で捕手、コーチなど歴任)の推薦もあり、阪神に獲得していただいたのですが、もう真っすぐがいかなかった。敗戦処理4試合と御子柴さんが急に体調を崩されて、「変わりに行け」と言われた先発1試合で終わりました。
-引退時に描いた通り、野球界と一線を引き、着実に土台を築いてきたわけですが、10年には硬式野球チーム「京都ブラックス野球協会」を創設。専用グラウンドも用意されたとか。やはり野球とは離れられないということでしょうか。
大門氏 週末は監督をしています。ある学校が滋賀県に10年近く使用してないスポーツ施設があるという話をつかみまして、何度もお願いに上がりました。子供たちのために使ってもらえるのであれば、ということで多くの方のご協力もあり、専用グラウンドとして使用しています。
-事業展開しながら野球指導も。多忙の極みだと思いますが、現役引退から着実にセカンドキャリアを築いている理由はどこにあるとお考えですか。
大門氏 人です。人に恵まれたと思います。いろいろな方に手を差し伸べていただいた。まだお返しできてないですけど、そこに尽きると思います。
-最後に今後の目標を。
大門氏 福祉事業所で核になる仕事を作り、独自性を出せたらなと思っています。そうすることで障がい者の方もより安心して通所できますし、グループとしてのシナジー効果も出していければと思っています。
◆大門和彦(だいもん・かずひこ)1965年5月31日生まれ。京都府出身。東宇治高から84年ドラフト4位で大洋入団。94年に阪神へ移籍、同年限りで引退。プロ通算233試合に登板。36勝52敗3セーブ、防御率3・86。右投げ右打ち。引退後はソニー生命に入社。現在はアイディーコンサルティング株式会社代表取締役などアイディーグループ代表の傍ら、ヤングリーグ・京都ブラックスヤング監督も務めている。