今年の12月13日は、日本野球界の未来にとって分岐点になるかもしれない。イチロー氏(46=マリナーズ会長付特別補佐兼インストラクター)が学生野球資格回復研修を受けた日だからだ。順調に資格回復すれば、来年2月8日から高校や大学で指導可能となる。過去には大きな溝もあったプロアマの関係は、今や未来志向の時代に入った。イチロー氏が同研修を受けた意味とは何だったのか。

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イチロー氏が学生野球資格を回復することが、プロアマの関係に大きなインパクトを与えるのは間違いない。実績、知名度で群を抜くスーパースターが高校球児を指導できるようになる。しかも、メジャー球団マリナーズに所属したままで。これまでは、プロ球団に所属している人は資格回復できなかった。今回、(1)学生への指導はマリナーズでの活動と重ならないオフ期間に行うこと(2)新人のスカウト活動をしないこと、の2点が確認されたことで資格回復への道が開かれた。

「イチロー特例」とも言われたが、今後、同氏のようなケースは増えるかもしれない。シーズン中だけプロ球団で役職に就き、オフは学生を指導する。一流の技術を持った指導者が増え、プロアマの交流がさらに進む。未来は明るいように思える。しかし、現場での受け止めとは微妙なズレがある気がしてならない。

今秋の明治神宮大会で準優勝した高崎健康福祉大高崎(群馬)の青柳博文監督(47)は「上の技術を持つプロが教えてくれるのはいいこと」と歓迎した上で、続けた。「高校野球は、ほとんど技術指導ではありません。そこに至るまでに時間がかかる。学校生活の中で野球をやっているということを教えないといけない。まずは生徒指導です。高校野球の監督をやっていると、技術指導も大事だけど、それ以外も大事だと痛感します」。同じような意見は、他の甲子園出場経験監督からも多く聞かれた。

確かに、たとえイチロー氏であっても、限られた時間で生徒指導まで期待することは出来ないだろう。その上で、想像してみた。2月8日以降、イチロー氏が臨時コーチとして指導する場面を。球児たちは興奮して、感激して、一層、野球が好きになるのではないだろうか。イチロー氏に教えてもらえるならと、野球を続ける中学生も増えるかもしれない。それだけでも、イチロー氏が資格回復する意味は大きい。

一方で、こんな心配も頭をよぎった。当然、イチロー氏も現場に配慮した指導を行うと思うが、仮に監督の指導と異なった場合、高校生はどちらを優先するだろう。また、イチロー氏の指導に異を唱える指導者など、いるだろうか。あまりに同氏の存在感が大きいことで、何かしらの不協和音が生まれないだろうか。

余計な心配かもしれない。3月の引退会見で、イチロー氏は「アマチュアとプロの壁が日本の場合、特殊な形で存在しているのでね。どうなるんですかね、そのルール。今までややこしいじゃないですか。自分に子どもがいて高校生だとすると、教えられないですよね。変な感じじゃないですか」と話した。その9カ月後、自らが問題提起した現場へと飛び込むべく、資格回復研修を受けた。

ユニホームを脱いだ後の就職口を広げるために資格回復研修を受ける人もいると思う。そのことを批判するつもりはないが、学生野球は、引退したプロの受け皿のためにあるのではない。イチロー氏の行動からは、本当にプロアマ関係を良くしたいという本気度が伝わってくる。

日本学生野球協会理事の内藤雅之氏は「研修自体がなくなることは絶対ない」と強調する。理想を語れば、プロアマの垣根なく、誰もが誰にでも野球を教えられる環境になることだろう。現役のプロ野球選手が、たまたま居合わせた高校生を指導したっていい。野球の発展につながるからだ。ただ、プロアマの間には過去に暗い歴史があり、さまざまな思惑が入り込みかねない世界でもある。だからこそ、双方が知恵を出し合い、歩み寄り、ルールを整えてきた。

長年、高校野球に携わってきた一流の指導者と、一流の元選手が、ともに手を携え、高校生を教える。時には、ぶつかるかも知れない。だが、それでいい。衝突から新たな指導法が生み出され、球児に役立つ知見が蓄積されていく。イチロー氏の学生野球資格回復は、真の意味で、プロアマの壁の「終わりの始まり」になるのではないだろうか。【古川真弥】

◆学生野球資格回復研修制度 プロ野球経験者が、高校、大学での指導資格を回復できる制度。13年6月の日本学生野球協会理事会で承認された。それまで指導者になるには教員免許を取得した上で2年間教壇に立つことなどが必要だったが、大幅に緩和。プロ、アマ双方の研修を修了し、同協会から認定されれば、高校、大学での指導が可能になった。殿堂入りしたプロ経験者は特例として研修に代わる面談、リポート提出など手続きが簡略になる。元メジャーリーガーでは村上雅則、小宮山悟、中村紀洋、佐々木主浩の各氏らが、同制度で資格を回復している。

▼今年の学生野球資格回復研修は12月13~15日の3日間、都内で行われた。初日は「NPB(日本野球機構)プロ研修会」。ヤクルト江幡専務による「プロアマの歴史」NPB伊藤法規室室長による「新人獲得ルール」など4つの講義と小テストも行われた。2、3日目は「学生野球研修会」。「部活動の位置づけ概論」「留意すべき教育的配慮」など計12講座で、リポート提出も課された。例年は数人の報道陣も、新聞、テレビとも大挙。イチロー氏がメディアに語ることはなかったが、同研修が大きく報じられるのは異例のことだった。