真新しいトレーニング室の壁紙は、ナインの決意の表れだ。壁一面に映るのは東京ドーム。社会人野球ロキテクノ富山の藤田太陽投手兼ヘッドコーチ(40)がスタッフと話し合って決めた。「モチベーションを上げるためにもイメージは大事。都市対抗で勝てるチームを作りたいから」。発展途上のチームを指導して5年目のシーズンに入った。

18年に全日本クラブ野球選手権で初めて全国出場を果たしたが、昨年は勝ち進めなかった。「細かい部分をきっちりしないと勝てない。もう少し自己犠牲とか状況判断の気持ちが生まれれば」。藤田の口調は熱を帯びる。

「もうちょっと、考える野球をすれば…」

そう言うと脳裏をよぎったのか、自ら切り出した。「野村監督のね、ちょっと話が飛んじゃうんですけど…」。00年のドラフト1位で阪神入り。ルーキーだった01年、ピリッとしないオープン戦を降板すると、監督の野村克也に呼ばれた。こう指摘されたという。

「例えば、1死三塁で4番打者、5回とかなら怖くないやろ。外野フライでも1点だけ。だけどな、9回裏無死満塁で9番打者が『強打者』に変わる。そういう野球をウチはしなきゃダメだ。逆に言うと投手はそういうケースを作ってはいけない。6、7、8番に四球とか、どうしようもない。弱打者を強打者にしてしまったら、野球は負ける」

教える立場になって「考える野球」の重みを痛感する。野村には打者を把握する準備を何度も説かれた。「全部データ化して頭に入れるのが投手の仕事。それがないのは丸裸で戦場に行くようなもんや」。真っすぐ待ちで変化球に対応できるか、ヤマを張らないと打てないか、内角球に強いのか、詰まりたくないか…。

だが、藤田も若かった。「どこかで勢いで抑えたい自分がいた」。悪戦苦闘の日々だった。新人で初のキャンプは1週間早々で投球フォームの改造を命じられた。歯車はきしみ始めた。バランスが狂い、右肘も悲鳴を上げる。03年に手術。復活を目指しても、出番をつかめず、09年途中にトレードで西武へ移籍した。

やるせなさを募らせていたのは藤田だけではない。西武では野村の悔いに触れた。あるとき、仙台の楽天戦で敵将だった野村に呼ばれてベンチに出向く。「おう、頑張っとるな」。ここまではいつものダミ声だ。

「なんか言われるのかなと思ったら、周りに誰もいなくなったときに『あのとき、悪かったな』と言われて。『あのときは指示を出すのが早かったな。もうちょっと見るべきだった。フォームを変えずに』とね」

あのフォーム矯正は野村が担当コーチに命じたものだった。藤田は「阪神にいた若いときは『あのとき、あのフォームを変えなかったら…』と正直、心のなかにあった。監督のあの言葉を聞いて、いろんなものが晴れて…」と明かす。藤田は阪神を放出されたが、新天地でセットアッパーとして奮闘していた。昔の指揮官に率直な思いを伝えた。

「あのとき、自分で試行錯誤したことで、いま、こうやって野球をやらせてもらっています。創意工夫してトレーニングも勉強しました。それがなかったら、いま、僕は投げられていません。感謝しています」

別れ際にボソッと言われた。「楽天のときは抑えるなよ」。もう、いつもの野村克也に戻っていた。

藤田がプロ初勝利を挙げたのは星野仙一が指揮を執った02年だった。「あの当時、投げることがすごく怖かった。投げたら、またみじめな思いをするんじゃないか」。星野はその心を見抜いていたのだろう。何度も鼓舞された言葉がある。「打たれても命は取られんぞ」。マウンドで大切なものに気づいた。野村に諭された「知」だけでなく、星野が発散させる「熱」もまた、敵に向かう力になる。

阪神での9年間は5勝にとどまった。藤田は「思い描いたのと全然違う自分でした。自分の弱い部分を認められない。理想だけの自分だった。もがいた9年。でも、その9年がなかったら、いまの自分はいない」と振り返る。傷を負った者だけが持つ視点がある。

「へたくそな自分がいたから、勉強するようになった。ケガもよくしました。せっかく痛い思いをしたんだから、かさぶたにして強くしないと。そこは」

室内練習場で選手を見て「当時の僕に似ている子もいます。言ってあげられること、ありますよね」と話し、言葉を継ぐ。「何よりも、コーチとしてプロフェッショナルになりたい。野球観も育んできたし、選手としてより教える方が性に合っていると思います」。力を尽くして戦い抜いた日々は、やがて年輪になる。うれしさも悔しさも、後輩の糧になる。(敬称略)