プロ野球の開幕日が6月19日に決定しました。日刊スポーツ評論家陣が「開幕」にまつわるエピソードを紹介する「開幕と私」が再スタート。今回は桧山進次郎氏(50)が星野政権1年目のアーチ秘話を明かしました。02年、巨人との開幕戦で先制弾が決勝点となり、思い出の一打に。チームの変革期に選手会長のリーダーシップが生んだ1発でもありました。【取材・構成=田口真一郎】

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今は亡き星野仙一が、若き左腕井川慶を抱き寄せた。02年3月30日、巨人との開幕戦の試合直後の光景だ。星野フィーバーで異様な雰囲気の中、3-1で宿敵を下した。投のヒーローが完投勝利の井川なら、打の主役は桧山だった。5番右翼で先発出場。2回に上原浩治のカットボールを右翼席に運んだ。先制の1号が決勝アーチになった。

桧山 上原と言えば、フォーク。これをどれだけ見極められるか。真っすぐの球威もあるし、コントロールもいい。ただカットボールは自分の中では苦にならないイメージがあった。

狙いすました1発でチームは勢いづいた。4回にはアリアスが2ランを放ち、巨人との開幕戦では39年ぶりの白星。ここから破竹の7連勝。会心の開幕アーチはリーダーシップから生まれたものだった。

桧山 星野さんの1年目に自分は選手会長2年目だった。新生タイガースを印象づけたい、という気持ちがあった。

01年オフには野村克也が監督3年目を終えて辞任。桧山は初の打率3割を記録した。主力選手の自負があったが、新監督の就任直後の言葉に心が揺れた。「阪神にはレギュラーは誰もおらん」。星野のひと言が報道で流れた。

桧山 やっと一流選手の仲間入りと思っていたのに、このひと言で、また一からやり直すのか、と思った。

鬱屈(うっくつ)とした思いでオフを過ごし、迎えた春季キャンプ前日。桧山は星野に呼ばれた。「ヒー、頼むぞ」。初対面ながら愛称で声をかけられ、がっちりと握手を交わした。星野流とも言える人心掌握術に、スイッチが入った。

桧山 期待とともに、選手会長として引っ張ってくれ、というメッセージと受け取った。どうやったら、チームを盛り上げられるのかを考え抜いた。星野さんになったからと、ガチガチになってもいけない。ふざけすぎてもダメ。その夜は眠れなかった。

当時、恒例だったキャンプ中の早朝散歩での声だし。初日に桧山は「何が何でも勝つんだ、という執念を持って臨みたい」と叫んだ。練習開始時のランニングでは隊列の先頭に立った。

桧山 実は走る前に他の選手に声をかけていた。「お前たち、声を出せよ。分かっているやろな」と。ミーティングも最前列に座った。「だから、このチームはダメなんだ」と思われるのが嫌だった。自分にとってもタイミングが良かったと思う。もうワンランク上の自分になろうと思っていた。星野さんがそうさせてくれた、というのはある。野球人生でいい経験ができた。

桧山の開幕アーチで始まった02年は4位に終わったが、選手会長3年目の03年にリーグ制覇という形で結実。祝勝会でビール瓶の着ぐるみに身を包んだ桧山の姿は当時、話題になった。

桧山 ファンの方も弱い時代に我慢していた部分が爆発し、変わっていくのが目に見えて分かった。いろいろとしんどかったけど、ビールかけの時は「それだけやったんだ」という達成感があった。

(敬称略)

◆桧山進次郎(ひやま・しんじろう)1969年(昭44)7月1日生まれ、京都府出身。平安(現龍谷大平安)、東洋大を経て91年ドラフト4位で阪神入団。95年から外野のレギュラーに定着して4番も務め、97年は自己最多の23本塁打。03、05年は主力としてリーグ優勝に貢献した。代打の神様としても一時代を築き、14本塁打、158安打、111打点はいずれも球団最多。阪神一筋22年。現役時代は右投げ左打ち。