黒いマスクで口元が覆われていても、解放感は隠しきれない。

「やっと勝てた。これでちょっと楽になれるかな」 藤浪は記念球を受け取り、目尻を下げた。

前日まで巨人に3戦連続完封負け。2回、適時内野安打で38イニングぶりの得点を奪った。失策、三振捕逸、自らの犠打野選で2失点した後も7回途中4失点と力投。今季4戦4敗からようやく692日ぶりの白星を手にした。

「苦しいことばかりだった。つらいことが多かった」

15年の14勝をピークに7勝、3勝、5勝…。昨季は自身初の0勝に終わった。

「ちょっとボールがそれただけで『あ~』とため息が聞こえる。キャッチボールさえ憂鬱(ゆううつ)な時期も正直、ありました」

極度の制球難。肥大を続けたレッテルは徐々に心身をむしばんでいった。

不要論。限界説。トレード説まで飛び交う日常。

「イップスでしょ」

ついにはスポーツ選手がイメージ通りに動けなくなる精神的な症状をささやく声まで、少なからず耳に入るようになった。

心配のあまり、心の鍛え方が書かれた本を送ってくれるファンもいた。感謝した。それでも「技術はメンタルを凌駕(りょうが)する」と信念を貫き続けた。現実から目を背けたわけではない。実は理由があった。

今だから明かせる。苦悩の底にいたころ、1度だけ「イップス」「野球」で動画を検索したことがある。そこで偶然目にした男性の姿に言葉を失った。

草野球らしきユニホームを着た彼は何度両足を踏み込んでも、どれだけ力を振り絞っても、金縛りにあったかのように震える腕だけを動かせずにいた。

「結果が出なければ何を言われても仕方がない。でも…自分なんかのレベルでイップスという言葉を使うのは、本当につらい思いをしている人たちに失礼だと、その時に思ったんです」

名前も知らない男性が気付かせてくれた。自分はまだ腕を振れる。マウンドに立てる。

覚悟を決めた。

「諦めたら…辞めてしまったら終わり。周りに何を言われても、やり尽くす。それしかない」

今春はグラウンド外でつまずいた。軽率な行動もあり新型コロナウイルスに感染。練習遅刻で2軍に落ちた直後、今度は右胸を痛めた。

「コツコツやるしかない」。誰よりも早くグラウンドに現れ、地道にフォームを固める毎日。批判から逃げず、自分と向き合い続けたから、道は開けた。

「今は人の痛みが分かる。人間として1つ成長できた。大きくなれたかな」

第2章。目の前には再び、洋々たる未来が広がっている。【佐井陽介】