中日の吉見一起投手(36)が5日、ナゴヤドームで引退会見を行った。6日の今季本拠地最終戦となるヤクルト戦(ナゴヤドーム)で引退セレモニーを行う。主な一問一答は以下の通り。

-引退を決めた理由は

吉見 自分の立ち位置、1軍に上がれない葛藤(かっとう)。それらを客観的に見つめ直して、まだ現役をやりたい気持ちはあったのですが、仮に来年続けたとしても同じ事を繰り返すかな、と判断して、次の道に進もうと30日に決断しました。

-相談は

吉見 妻、ひとりですね。子どものいないところで1カ月くらい相談して決めました。伝えてときは「わかった」という一言でした。

-悔いは?

吉見 悔いは…う~ん、ないです。後悔はあります。もっと練習しておけばよかったとか、何であのボールを選択したとか振り返ればああしておけばよかったというのはあります。

-特に後悔があるとすれば

吉見 ケガをしたときですね。そこでストップしておけばよかったかな、と。多少無理して2ケタ勝ちたいという思いがあった。そこでストップしていれば違う人生だった。ただ、これも人生。それも自分でなので受け入れている、吹っ切れています。

-08年からの5年連続2ケタ勝利。手術以降の8年を

吉見 5年間、8年間、両方楽しかった。ただ正直ここ数年は苦しい1年1年でした。(理由は)勝てない。それです。

-関係者への引退報告は

吉見 お世話になった先輩方には報道が出る前にさせていただいた。(引退勧告された)和田(一浩)さんから「自分で選べるんだから幸せだぞ」と言っていただきました。その通りだなと。

-落合元監督には

吉見 しました。「早いよ」と言われましたが「違う目的があるので早くシフトチェンジしたつもりです」と返しました。

-制球力で勝負したきっかけは

吉見 入団してすぐ、森(繁和)さん、谷繁(元信)さんに「お前が生きていく道はこれだよ」と教えていただいた。自分でコントロールはいいとは思っていない。120球投げても数球しか(思うところに)いってない。コントロールで生きていこうと決めた中で駆け引きだったり、目に見えない対戦というものがある。それがコントロールを意識して上達していった。

 

-こだわってきたことは

吉見 ゲームの空気を読む。ホームベースまでの18・44メートルの空気を読むというのは決して速いボールを投げられるわけでもない(自分のボールが)見劣りするのは事実なので、そこはこだわってきました。

-勝てた理由は

吉見 当時最高の仲間がいたからかな、と思います。助けてくれる仲間、打ってくれる仲間。使ってくれた指導者。大きいのは谷繁さんの存在です。野球を一から教えていただいた。谷繁さんがいなければぼくの白星はこんなになかった。

-転機は

吉見 2008年。キャンプを1軍で過ごし、オープン戦に入っていく中で2軍にいけと言われた。(登板予定が)雨で流れて、急きょ翌日の1軍のオープン戦で巨人に5イニングを0点に抑えた。そこから僕の人生は一気に大きく変わったのかなと思います。

-思い出深いのは

吉見 昨年、日本ハムと対戦してずっと尊敬している金子さんと投げ合えたのはひとつのご褒美かなと思います。

-見たくない打者は

吉見 走者のいる場面での巨人にいたDeNAラミレス監督。トップレベルだと思うし、駆け引きがすごく楽しかったが、それが読まれているかのように、たくさん打たれました。

-今後のチームへ。

吉見 ドラゴンズは強いです。本当に強くなっている段階。勝ち方を知ればもっと簡単に勝てる。ただ、勝つだけじゃなくて、もっともっと自分を知ってもらいたいな、と思います。自分を知って、何をすべきかわかればもっと成長できる。

-15年を振り返って

吉見 てっぺんも底辺も見れて、両方見れたのは野球以外にも生きるし、今後の人生に生きると思う。15年が長いか短いかわからないですが、入団したときにエース川上さんがいて、みんな150キロを投げる投手ばかりで「えらいところに来てしまった」と思ったのですが、15年もできて、90勝つことができて本当にいい野球人生だったと思います。

-引退したら何を

吉見 とりあえず自分の中で準備を大事にしてきたので、それをしなくていいと思うと気が楽なのでゆっくりしたいです。

 

◆吉見一起(よしみ・かずき)1984年(昭59)9月19日、京都府生まれ。金光大阪からトヨタ自動車を経て、05年希望枠で中日入団。08年から先発で台頭し、09年は16勝で最多勝。11年は18勝で最多勝、防御率1・65で最優秀防御率の2冠に輝き、リーグ制覇に貢献した。肩、肘の故障、手術などの影響で、2桁勝利は12年の13勝が最後。今季は先発4試合で1勝2敗。通算成績は222試合、90勝56敗、11ホールド、防御率2.94。182センチ、90キロ。右投げ右打ち。