日刊スポーツでは大型連載「監督」をスタートします。日本プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。第1弾は中日、阪神、楽天で優勝した星野仙一氏(享年70)。リーダーの資質が問われる時代に、闘将は何を思ったのか。ゆかりの人々を訪ねながら「燃える男」の人心掌握術、理想の指導者像に迫ります。

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北陸の冬はいてつく寒さだ。食い道楽だった星野の愛した店が福井にある。名店「寿し吉田」。のれんをくぐると、大きないけすに日本海の王様、旬の越前ガニが泳いでいた。

1969年(昭44)5月5日、広島戦でプロ初勝利を挙げたのが、この地だった。星野はプロ野球人生の出発点にできたなじみの店との“縁”を死ぬまで大切にした。

翌6日が新聞休刊日で、7日付の日刊スポーツに「さっそう神宮の心臓男」と見出しがついた。試合前には「今日がぼくのプロ生活の勝敗を決めるでしょう」とコメント。監督の水原茂に肩を抱かれた星野は涙を浮かべたという。

先代田畑清正から受け継いだ2代目秀雄(69)は「人の上に立つ人というのは、こういう米びつの大きな方なんだろうと思いました」と長かった付き合いを振り返った。

作家司馬遼太郎も「街道をゆく 越前の諸道」に書き留めた老舗で各界の名士が集う。秀雄は「お客さまのいやしにならないので写真、サインはお願いしないのが筋です」といった。

だが名物おかみの夫人通子(65)は1枚だけしまってあった写真を引っ張り出してきた。亡くなる直前の殿堂入りを祝う会に招かれた際のツーショット写真だ。

また楽天監督を退任した後で送られた写真額の裏には筆書きでしたためられた。「蟹の味 人の味」--。通子は「今思えばきっと御礼の意味だったのかもしれませんね」ともらした。

中日、阪神、楽天を“星野流”で優勝に導いた。「死ぬまで修行」という職人気質の秀雄は、鉄拳、信賞必罰といった人心掌握を自らの世界にだぶらせた。

「人によってはおだてて人を伸ばせというけど時間がかかります。小さい店ではいきなり包丁持たないと仕事になりませんから。最初は細巻きだって、きちっとおさまらなかったり、ひっくり返ったりします。お客さまの前で叱られるのは恥ずかしいことだけど、説教されないと中途半端になります。時には愛のムチは必要でしょうね」

01年オフ、中日から阪神監督に電撃就任する際に通子は手紙を送った。「だいぶ迷っていたみたいなので、おせっかいでしたが『人に必要とされるのは幸せよ』と書きました」。

ある年、星野が退場処分になった直後に店を訪れたときのことだ。「わたしが『あんなに怒らんでいいんじゃないの?』と言うと『あれはパフォーマンスだよ』とおっしゃった。どうすればファンが喜ぶかを考えているんだなと感心したものです」。

殿堂入りパーティーの会場でファンに囲まれてサインをせがまれる田中将大が「ここは監督のお祝いの席ですから」と断った光景に接した。「えらいなと思いました」。星野の教えには格別の味があった。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆星野仙一(ほしの・せんいち)1947年(昭22)1月22日生まれ、岡山県出身。倉敷商から明大を経て、68年ドラフト1位で中日入団。エースとしてチームを支え、優勝した74年には沢村賞を獲得。82年引退。通算500試合、146勝121敗34セーブ、防御率3・60。古巣中日の監督を87~91年、96~01年と2期務め、88、99年と2度優勝。02年阪神監督に転じ、03年には史上初めてセの2球団を優勝へ導き同年勇退。08年北京オリンピック(五輪)で日本代表監督を務め4位。11年楽天監督となって13年日本一を果たし、14年退任した。17年野球殿堂入り。18年1月、70歳で死去した。

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