<楽天営業部長 松原健太郎氏>

日刊スポーツの大型連載「監督」。日本プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。第1弾は中日、阪神、楽天で優勝した星野仙一氏(享年70)。リーダーの資質が問われる時代に、闘将は何を思ったのか。ゆかりの人々を訪ねながら「燃える男」の人心掌握術、理想の指導者像に迫ります。

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楽天を球団初のリーグ優勝、日本一に導いた星野仙一氏(享年70)の「最後のマネジャー」になった楽天・松原健太郎氏(42=営業本部営業第3部部長)もがん克服と闘ってきた。あきらめない心、勝負に対する執念に闘将を見た。

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杜(もり)の都、仙台は夕方になってしぐれた。“最後のマネジャー”になった松原と会った。

「一緒にがん克服と闘ってきました。最後のほうはおこがましいですが、一緒に病気と闘う仲間、チームだったと。はい。そう思ってます」

前任者の河野亮(ロッテ打撃コーチ)、小池聡(楽天広報部長)から引き継いだのは14年(平26)のシーズン後だ。15年にシニアアドバイザーから取締役副会長に就任。翌16年に膵臓(すいぞう)がんが発覚する。当初の診断は膵炎(すいえん)だったが、病魔は進行していた。

松原はトップシークレットの中で、事実を知った数人のうちの1人だ。仙台市内に出てチケット販売に回った後、打ち上げの場に関係者から入った1本の電話。その後のことは記憶にない。「たぶん、真っ青だったと思います」。

翌日以降もスケジュールを調整し、送迎運転手を務めた。星野の口から打ち明けられることはなかった。松原も説明を求めない。互いの無言が、これから病気と闘っていく2人の固い契りだった。

「たまに『いててっ…』と言っても、ぼくにはどうしようもなく、見てるだけで…。心中測りかねますよね。つらかったです。もともと痛いだの、かゆいだのと表情にださない人じゃないですか。でも監督のときの迫力のあるイメージが強かったので、素というのか、より人間くさいところを見せてもらった気がします」

星野が抗がん剤治療をしている時期だった。そばにいた松原は突然、かき氷を食べたいと言われた。

「なにか冷たいものを口の中に入れたいみたいでした。カップのかき氷みたいなやつです。なんとかというレモン味のかき氷が食べたい。あれじゃなきゃダメだとおっしゃったんです」

松原は12月の都内を車で走り回った。何軒もコンビニ、スーパーを回ったが冬季は在庫が少ない。約2時間後、それらしきものを見つけて買って帰った。

星野 これじゃないんだ。

松原 でも監督、ありません。半径20キロにある店を回ってもなかったんです。

星野 ないことはない。お前は探したんか? あれが食べたい。なんとかレモンが食べたいんや。もっと、さがせ。

松原は部屋を出て再び街を約2時間さまよった。「あった、あった。サクレのレモン味があった」。それを見つけて持ち帰ったとき、時計の針は午前0時を回っていた。

「『監督、ありました』と言ったら、『なっ、あっただろ』といってニヤッと笑うんです。そしてうまそうに食べた。2つほど食べたんです」

ささやかなできごとが、松原にとっては大切な経験則になった。

「こんなちっちゃなことですが、わりとぼくの人生の教訓なんです。あきらめなかったら絶対ある。ちょっとやってダメだからと、あきらめちゃいけないという教えですよね」

あとで後悔しない生き方を、1つのかき氷が教えてくれた。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆星野仙一(ほしの・せんいち)1947年(昭22)1月22日生まれ、岡山県出身。倉敷商から明大を経て、68年ドラフト1位で中日入団。エースとしてチームを支え、優勝した74年には沢村賞を獲得。82年引退。通算500試合、146勝121敗34セーブ、防御率3・60。古巣中日の監督を87~91年、96~01年と2期務め、88、99年と2度優勝。02年阪神監督に転じ、03年には史上初めてセの2球団を優勝へ導き同年勇退。08年北京オリンピック(五輪)で日本代表監督を務め4位。11年楽天監督となって13年日本一を果たし、14年退任した。17年野球殿堂入り。18年1月、70歳で死去した。

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