<BC信濃取締役会長 飯島泰臣氏(上)>

日刊スポーツの大型連載「監督」。日本プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。第1弾は中日、阪神、楽天で優勝した星野仙一氏(享年70)。リーダーの資質が問われる時代に、闘将は何を思ったのか。ゆかりの人々を訪ねながら「燃える男」の人心掌握術、理想の指導者像に迫ります。

   ◇   ◇   ◇

中日、阪神、楽天を優勝に導いた星野仙一氏が人を引きつけたのは、ぶれない信念だった。明大後輩で、BC(ベースボール・チャレンジ)リーグ「信濃グランセローズ」の取締役会長・飯島泰臣氏(55=飯島建設代表取締役社長)が、闘将の筋を通して行動に移す人間性に触れた。

       ◇

明大の後輩で、プライベートの付き合いだった飯島は、星野を「先輩」と呼んできた。その接点は鮮明に覚えている。1987年(昭62)のドラフト直後、東京・調布のつつじケ丘の合宿所に1台のベンツが滑り込んだ。

「わーっ、星野仙一だって感じですよ。うち(明大)では天の上の人ですからね。おっかないし、怖かったです」

飯島は秋季リーグ戦後に主将に任命されていた。監督1年目を終えた星野中日が“甲子園の星”だった沖縄水産・上原晃をドラフト3位で強行指名。明大進学が決まっていたから横やりを入れた形で、明大監督の島岡吉郎に面会に訪れた。

「御大(島岡氏)に仕切りを入れに来たと思うんです。明治も上原はドラフト1位でしたから、すぐには行きがたかったんでしょうね。なかなか部屋に入らずに合宿所の周りを回りだしたんですよ」

すると風呂場をのぞいた星野に呼びつけられた。

「当時の風呂場の椅子は木製で、先輩がそれをチェックして『お前っ、こんなヌルヌルしてたら勝てんぞ!』と叱られた。そしてマネジャーに『今からオヤジ(島岡氏)の部屋に行く。投げつけられてケガするものは片付けとけ』とニタッと笑って御大の部屋に入っていったのです」

飯島は出身地の長野市内で飯島建設の経営者として地場産業を支えている。星野が軽井沢に保有した別荘建設に関わった。BCリーグ「信濃グランセローズ」の取締役会長で野球界にも携わっている。

「10億円でも、100万円の事業でも、まぁいいやはない。仕事の大小に差をつけない。筋が通らないプロセスの間違いを見逃さない。だから先輩は、例えば玄関に上がる際、靴をそろえたりするのを絶対に見ている。要は人が見ていないところでの所作をしっかりと見ていたと思う。だから常に緊張もしました」

星野は部下に対する愛情と厳しさを使い分けながら人間関係の信義を重んじた。飯島は「御大と生き写しですよ」という。18歳年下の後輩をかわいがったし、飯島も先輩を慕った。「決断力」「迅速な行動」「筋を通す」。星野は“この人のためなら…”と暗示をかける達人だった。

「長野出身の力士、清乃海の父親(山本修氏)がぼくの後輩で、星野さんと一緒にゴルフをした。その場で元大関栃東の玉ノ井親方に『はよう清乃海を関取にせんと承知せんぞ!』と直接電話をしてしまう。そして次の週には、福島県相馬市で合宿をしていた玉ノ井部屋の先代玉ノ井親方に連絡をし、大量の肉を運び込みながら、清乃海を直接激励する。これ分かります? 私の顔を先輩が立ててくれたんですよ」

飯島は「先輩を好きになってしまうって、なんだったんでしょうね」とつぶやいた。

「今の世の中って正論であっても嫌われると思ったら口にしない。でも先輩は自分が迎合することより、嫌われても、そこで起きる葛藤をいとわなかった」。星野という男のぶれない信念は人を育てた。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆星野仙一(ほしの・せんいち)1947年(昭22)1月22日生まれ、岡山県出身。倉敷商から明大を経て、68年ドラフト1位で中日入団。エースとしてチームを支え、優勝した74年には沢村賞を獲得。82年引退。通算500試合、146勝121敗34セーブ、防御率3・60。古巣中日の監督を87~91年、96~01年と2期務め、88、99年と2度優勝。02年阪神監督に転じ、03年には史上初めてセの2球団を優勝へ導き同年勇退。08年北京オリンピック(五輪)で日本代表監督を務め4位。11年楽天監督となって13年日本一を果たし、14年退任した。17年野球殿堂入り。18年1月、70歳で死去した。

連載「監督」まとめはこちら>>